時空のこと

時空のこと

2022.12.10 – 2022.12.23 東京・静岡・神奈川・埼玉

これが今年最後の「現在地」の原稿になる。2022年が残り10日を切っている、というのは驚いてしまう現実だ、私には。今年の始まりは、すなわち1月1日は「(両眼の白内障手術後の)裸眼での生活が、完全にスタートさせられて、わずか2日め」だった。私は、その元日の時点で、今年の予定は本当にゆるゆるにしか入れていなかった。連載小説『の、すべて』に没頭していればよいかな、という程度だった。あとはここ雉鳩荘の、その内外(家の内側と庭)をゆっくり自分たち家族の暮らしにふさわしいよう、作り上げていけばいいや、と思っていた。もちろんTVアニメの『平家物語』の地上波オンエアが始まることはわかっていたし、初夏に劇場アニメ『犬王』が公開になることもわかっていた。でも、それらの作品は、「私の作品から産まれたもの」ではあるのだけれども「私の産んだもの(作品)」ではない。それらの作品のすばらしさは、それらの作品にじかに携わった方々の才能、労力、意図のすばらしさ、による。

先々週、映画の『犬王』がゴールデングローブ賞にノミネートされた、との報せが届いて、私は仰天したが、それもまた湯浅政明監督をはじめ、この映画にじかに関わった方々の栄誉である。原作者の私は、末席の末席にいるに過ぎない。ただ、……そうかあ、アメリカかあ、とは思う。私は去年の秋に、UCLAでの学会登壇に誘われていて、しかし、パンデミックのこともあって、その渡米が正式決定したのは今年4月だった。また、イタリアに渡航することが決まったのも4月である。長篇詩『天音』イベントをやったり取材を受けたりしながら、自分で愕然としてしまうのは、それらの海外渡航がなければ、この詩『天音』はまるで異なる作品になっていたであろう、ということだ。私は縁だけで生きている。この縁は〈因縁〉の縁だ。めぐりあわせ、とルビを振ってもよい。

来年1月頭に発売される文芸誌から、私はサイズの大きなノンフィクションの連載を開始するのだけれども、これもまた、仮に今年、自分が渡航というものを試みなかったら(……というのは、断わるという選択肢はあったから。「いつでも断わってもらっていいんです」と言われていたから。コロナの脅威・恐怖とは、そういうものだった)、やはり軌道はこうはならなかった、と言える。そもそも今年の元日、私はこういうノンフィクションを構想などしていなかった。

空間の拡張は、まあ上記したような事柄が象徴した。時間の拡がりに関しても、私はもちろん、同様の感慨にひたった、というよりも打たれたのだった。私は20年前にナンバーガールというロックバンドの解散に、解散当日のステージには立ち会えなかったにしても(それは札幌で行なわれたので)、解散のその月の東京での公演には、もちろん客席にいて目撃して、そのことは小説にも書いたことがある。『ボディ・アンド・ソウル』という作品内に。そして20年後に、ナンバーガールは再結成を経て、再解散をして、やはり私は、客席にいて目撃していた。私は結局叫んでしまったし、私は結局(抑えに抑えたのだが)多少暴れた。凄いステージ過ぎたので。20年前と異なるのは、終演後に、向井秀徳という、そのバンドの中心人物にじかに「ホントに凄かった……」と言葉を伝えることができるような場所に、自分がいた、自分がいる、ということで、それが実質的にはいったいどういうことなのか、結局私はまだちゃんとはわかっていない。私は信じていない。20年前、私はほとんど誰にも知られない作家だった。に等しかった。「専業作家になる」と決めて、他の仕事を全部断って、その年、ナンバーガールの解散に合わせるならば2002年の11月、に、私はまだ「専業作家」丸1年を経ていない。

もちろん、私はいまだに誰にも知られない作家だとは言える。しかし、これは最近も書いたように思うのだけれども、「誰にでも知られる作家」になど私はなりたがっていない。私は、私の存在が、この私の作品というか表現が、その人にとって少々の意味があるような読者やオーディエンスにのみ、知られたい。

私はその人たちを祝福したい。私はその人たちのためにありたい。

来年は何をできるのだろう、とは考えない。1月から新連載が始まる。2月には、これは2月19日にだけれども向井さんとの MATSURI SESSION が草月ホールで開催される。「古川日出男と向井秀徳が、東京でステージを演る」というのは、前回が2007年だったから、16年ぶりのことになる。16年ぶりの共演である。なんというか、もう、それを言えればじゅうぶんだ。もちろん、「じゅうぶんだ」と言った台詞の裏側に、観てほしいよ、との声があるのだけれども。

そして来年2月25日から、私は作家デビュー25周年を迎える。25年めに入る。

3月にはどうするか? 私は「朗読劇『銀河鉄道の夜』」の新しい軌道をひいた。目下ガリガリと、レールを敷いている。今度は舞台ではない。『コロナ時代の銀河』のような映像作品でもない。しかし、延びる延びる線路だ。力強い協力者は、またもや集まった。じつは脚本はおととい書きあげた。今回の脚本がいままででいちばん難儀した。それは結局、私が惰性では書こうとしないからだ。私はまたもや命を削り、そうして、脱稿して関係者に読んでもらったことで、またもや再生した。ひと言いう。〈削った命は、他者からならば、吹き込んでもらうことは可能である〉。

自分ひとりじゃどうにもならないよ。来年もまた、みなさん、いっしょにいましょう。