軽さと重さ

軽さと重さ

2023.01.14 – 2023.01.27 東京・千葉・京都・埼玉

前回の「現在地」は新年の1本めということで、かなり頑張って〈軽さ〉を演出していたところがある。実際には新年早々、私は仕事しすぎである。いや、ちゃんと自分でスケジュールを制御はしているのだ。そして、それは守れているはずなのだ。だから3日に1日は満足する。ところが、このところ1週間に1度ならず、睡眠時間が2時間前後にまで追い込まれる事態が生じている。この年齢でかよ……と呆然とする。要するに、なにかこう、突然「やってよ」と言われる案件が飛び込むのよね。なんなのかなあ。ちゃんと寝たいよ。

ただし、熟睡はできる時はできる。それでは「できない時」にパターンはあるのか? これがあるのだ。ある仕事を終えて、その仕事の〈手応え〉が得られないということがあって、つまり何のレスポンスもない、とかね、そういう状況はホントしんどい。いや、もうね、重いよ。そういう〈重さ〉のことは書いておきます。あのさ、みんな、周囲に迷惑かけないように生きようよ。そしてね、こういう大人みたいなことをね、俺に言わせんなよ。

と、ここまで書いたらまあスッキリはしたので(……何が?)、ちゃんと私が計画通りに全力を尽くして結局なんとも全力的に凄くなってきていることを記す。私は京都に取材旅行に行って、あれもこれもと、いろんな出会いをした。私という人間は、関西に住んだこともない者としてはけっこう京都を歩きまわっているほうだと思う。そのわりに観光はしていないんだけど。で、連載開始された『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』のことを意識しながら、すなわち自分のなかの〈チャンネル〉のようなものを開放しながら京都を歩きはじめたら、ある土地ではそこの潜在的なポテンシャルと再会し、ある建築物内でおのれの「レベルの低さ」を痛感して、向上心をたっぷり注ぎ込まれた。いいなあ、京都。大好きだなあ。もっと行きたい。しかし、もっともっと行くためには、時間の余裕を作らねばならぬ。お金だって稼がねばならぬ。

そして人類の行く末だって、考察せねばならぬ。それがこの『京都という劇場……』略してパンオペの主題である。明らかに世界は、特に日本は、この数年で駄目になった。たぶん落ちつづける。そんな時代に、不可視のウイルスに触発されて〈歴史〉を通して〈文化〉を見据える、とはどういうことか? それをやる。オペラをやる。オペラにできるのか? 死闘を続ければ、できる。あとは細かい邪魔が入らなければね。つまり睡眠時間だけは確保しないとなあ(……確保させてよ)。

小説『の、すべて』は、あと10日ほどで第4部の始まりのパートが活字になる。この連載を誰がリアルタイムに読んでいるのか、私はわからない。わからないけれども、この小説はここまで来ている。そして、その10日後に活字になるパートのさらに先を私は書いていて、それは、さらに恐ろしいところに来ている、と記す。あのさ、俺は基本的に小説家なんだぜ。だからさ、まだまだ成長するんだぜ。わかってるの? ……って誰に怒っているのだ。うーん、鎮めねば……。

その小説家だからこそ、私は朗読する。私は脚本も書き、詩も書いた。まだ書く。評論だって書いているし、もっとやる。それで朗読や脚本だけれども、今度の朗読劇「銀河鉄道の夜」はいちばんコアのメンバーが多い状態で、いちばん創造的な側面を拡張して、発表は今年3月から夏の8月頃までを見据えて、たぶん展開する。考えてみると、私は2011年12月からこれをやっているのだった。そして、まだやっているのだった。「いつまで?」とは考えない。そういうことは問わずに、いま、ここ、現在、そこらじゅう、みたいなところだけを考える。このプロジェクトは、助けてくれる仲間、共振してくれる表現者たちが欠けたら、たぶんストップする(それはそれでかまわない)。いまは、こんなにも、いろんな人たちが集まってくれている、ということだ。

けれども、ここには圧倒的な肝もあって、「このプロジェクトは、お金にならないから、人びとが共振している」のも事実だ。金ってなんなのかね? 金がないと、世間的なプロジェクトには人間が集まらない、たからないのはなんなのかね? うちの雉鳩荘の庭には、この冬になって、また猫たちが集まりはじめているっていう、この幸せさに比較して、なんなのかね?

まあ、しかし、やりたいことをやれる状態を維持できる程度には、稼ごう。そして、それこそ私という人間が「自分よりまだ若かったり、ポジションを作れないでいるのだけれども、意志がある」人間のために、力を貸せるような立場にはいつづけよう。そうなのだ、シンプルに言うのだけれども、私は時代を変えたい。

草月ホールでの「MATSURI SESSION 古川日出男×向井秀徳」も近づいてきた。そこでどのようなビジョンを提示するのか、言葉と音だけで提示するのか、の核心部は、向井さんと先日キャッチした。ビシッと固まった。さあさあお立ち会い、いまじゃ小説なんて誰も読まなそうな時代に、この小説家はまだやるって言ってるぜ? カラダ張って何ができるか、そういうのだってナラ・ナラ・ナラティブって示してやりましょうや、言ってるんだぜ?