曼陀羅華AからZ #05

おしまいのZ:重文

連載原稿の、その執筆の最終盤はひたすら没入した。まるまる41日間、私は休まずに『曼陀羅華X』を書きつづけた。この小説の〈物語〉的な終着点は2004年6月5日の土曜日と設定されていたのだけれども、そこで私は、これらの日時的なセッティングの〈月日+曜日〉に注目し、6月5日の土曜日にこそ脱稿すると心を固めた。それは、2021年6月5日、を指した。奇しくもこの日は土曜だったのである。

『曼陀羅華X』の第3部は「実況放送中」と題されていて、私の試みとはすなわち、本当に実況してやるぞといったものだった。言うまでもないが小説とはフィクションなのであって、それを実況することは不可能である。しかし、もうひとつの「6月5日、土曜」をえんえん41日間生きるというか、えんえん目指しつづけるというか、走るというか、そうしたモードに自分(=筆者、レポーター)のこの心身をぶち込んでしまうことで、私はできないことをやってみた。

できたのだと思っている。いまは。

単行本のための校正刷りが出て、そこからは、さらにシーンを書き足したり、言葉を研ぎ澄ましつづけたり、なにしろ2度めの校正刷りのチェック作業まで、とことん粘った。特に推敲を要したのは「大文字のX」の章、すなわち作家の視点でもって語られているチャプター群であって、そこにおいて「言葉を研ぎ澄ます」とは、彼の台詞を、発想を、よりクリアにすることでもあった。この彼は、いかなる意思(を発生させる基盤、マトリックス)を持った文学者なのか?

たとえばライトノベルという言葉があって、このライトとは right ではなく light なのだと想像するのだけれども、それが「軽さ」を自称するのならば、『曼陀羅華X』の彼の、それからまた私の、取り組み方はたぶん重い。ノベル(長篇小説)その他へのタックルの仕方が、である。あるいは製本されて発表させる作品の、実質的な目方が、でもある。だから、もしもライトノベルという呼称が、ポピュラー音楽を軽音楽と蔑するように(仮に)軽文学とでも日本語化し直せるのだとしたら、『曼陀羅華X』の彼の、それから私の、やっているものは重文学である。

それを略そう。重文である。

私は、自分以外の存在を不純視することを厭うタイプの人間なので、自らの文学を純文学(〈純〉文学!)だと思ったことはない。ただの文学である。『曼陀羅華X』を含めて。純といった冠は要らない。しかし、どうしても「なになに文学」と説明しなければならないのならば、そのような不当な要求がある局面では、いっそ重文学ですと名乗ってもよいのかなと、「大文字のX」の彼のことを考えると、私自身に立ちもどって考える。「そうですね、もしかしたら……たぶん、ええっと、重文ですね」と。