天音、そのオンとオフ #01

感染症に対抗するためにウイルスとなる詩篇を


どうして自分は詩を書きあげられたのだろう、と考えている。『天音』の上梓からやや時間が経過した現在、だ。そこで今年の前半に書きちらしていた創作メモを漁っているのだけれども、そこには「境界を越える」「変異する」等のフレーズが発見できた。これは古川日出男がもしも長篇詩を作るのならば、そうでなければならない、と意識して書き込まれたメッセージ群なのだろうか? 記憶はあいまいだ。その言葉のインパクトが境界を越える、なるほど、それは〈詩〉に求められる力だろう(ただ、だとしたら、どういった種類の〈境界〉を念頭に置いていたのか、がいま現在の私には気になる)。そのフレーズが続々と変異する、なるほど、それもまた〈詩〉ならではの畳句になる、と思える。単なる繰り返し(リフレーン)から逸脱する、ということ。

メモをさらに2枚捲ると、試みに書かれた(のだろう)1行があった。用紙の日付は 2022.03.19 で、その頃の私はいったい何をしていたんだろう、とスケジュール帳を捲ったら、夜、映像作品『コロナ時代の銀河』の仏語字幕版をフランスの人たちと Zoom を介して観て、話す、ということをしていた。日本語からフランス語への通訳もついていた。これは、なんだかぜんぜん長篇詩『天音』とは関係がないような気がする。どうなのだろう? いずれにしても件の1行というのを引用すると、

  こちら首相官邸です(ライブ会場にはぴったりだ)

と私は書いていた。その何行か下に、空白の罫をたどった果てに、『天音』 てんおん Ten-On (Songs on the Heavens) とあるのだった。題名がこの時点で生まれている。ただし、それが 2022.03.19 であったという確証はない。

もっと具体的に、なぜ詩を書けたのか、を推測する。これはもう絶対に、私が「天音ノート」と自ら名づけた手帳を携行しつづける日々があったからだ。この手帳の扉には 2020.05.01- とある。そして私はどんどん書いていった。日々、何かを書いた。この「天音ノート」に。

たとえば小説(物語)を執筆するためには、日常から離脱する必要がある。ゆえに私は毎度毎度、難渋する。しかしながら詩は、私の暮らしと並行していた、その日常と雁行していた、私はいつも「天音ノート」を携行していた。海外に出る際にも、だ。そこに、確実に絶対に、何かがある。私は最初、そのまま〈詩〉の行として結実するかもしれない言葉を、残らず、手で書いた。こういう〈肉筆〉の存在にも何かがある。そこに肉体が(まず最初に)介在して、かつ、「境界を越える」とのフレーズの意味が「国境を越える」にしばしば近づいて、一体化もした日々。そして COVID-19 が変異しつづけたり、変異する予感に満ちていた日々。『天音』という詩は、長篇詩は、それ自体が対抗ウイルスをめざしたのだ、と、このように認めたい衝動に駆られている自分は、たぶん小説家だ。

(撮影:かくたみほ)