アップデートされ続ける現在を

アップデートされ続ける現在を

2020.02.29-2020.03.13 福島(浜通り広域・郡山・福島市)・東京

今回の「現在地」は書き出しに用いたいエピソードがあったのだが、しかしそのネタは吹っ飛んだ。昨日、『木木木木木木 おおきな森』の装幀デザインが上がってきた。事前のネタは「吹っ飛んだ」のだが、それは、このデザインに私が「ぶっ飛んだ」ためである。担当は水戸部功さんで、私は水戸部さんに一昨年の『とても短い長い歳月 THE PORTABLE FURUKAWA』と、2013年の『南無ロックンロール二十一部経』をお願いしていて、要するに「とんでもない」本はみな彼に任せているに等しいのだが、『おおきな森』はこちらの予想を遥かに超えて、ただの爆弾ではない。典雅であり狂気があり豊饒さが支配して、夜であり森である。かつ文字の扱いは縦横無尽である。凄い。

『おおきな森』はプルーフの時点で、すでに反響があるようだと知らされた。うれしい。そして、最終的にはこのデザインをまとって世に出るのだ、と思うと、もう行けるところまで行くしかないなと感じる。造本は、たぶん手を抜かないことになるので(そのように編集部レベルで判断してくれると思う)、徹底した佇まいは確実に貫かれる。ちなみに私は、『おおきな森』の再校ゲラにほぼ10日まるごとを費やしてしまって、その分スケジュールは押すわ精神的には参るわだったが、しかしながら「やりきった」感は圧倒的にある。なにしろ昨日、最後の2文字を修正し終えた。そのうちの1文字は、足された読点(、)だ。私は、この巨大な森に、土壌も含めて栄養は与え切った、と感じる。あとは森そのものの生命力、その〈生命〉の循環システムに委ねる。

プロモーション用の朗読(=動画撮影)もした。イベントも準備している。ただ、現在の世界は「だから、どうなるのか?」がまるで読めない。もちろん私はブレずに動いているのだが、世界はブレもするだろう。その都度その都度、対応する。それ以外にないから。

そして私は、ここに「私は『福島のちいさな森』という原稿を発表した、ついに今月発売の『群像』誌に」と記す。このタイトルは一切ふざけていない。『おおきな森』がここまで渾身の本であるのと、ほぼ同じ心理的な〈圧〉を、この短い原稿に収めた。この原稿のタイトルが『福島のちいさな森』であるということは、ひたすらに私の本気度を示しているだけだ。かつ、この『福島のちいさな森』で刻んだ感情は、このまま、次なる1篇、あるいは巨大なルポルタージュと或る程度のボリュームを持った試論に引き継がれる。そのために行動しつづけているが、実際にはどうなるのか、予断を許さない。つまり、これもまた現況がアップデートされ続けているからなのだが。

ひとまず言えるのは、私はオリンピックの開催期間に、東京を離れて、福島県内を歩きつづける、ということだ。コンピュータやノート類や着替えや、あらゆる荷を負って、歩き、人びとの話に耳を傾ける。連日、それを地元のメディアに発表する。その後、県外に向けての発信・発表も、上記した「巨大なルポルタージュ」という形で行なう。ちなみに福島盆地は、夏、日本で最高気温を叩き出すことも多い。その季節に、私はこの老いた肉体で、何十キロもの荷物を背負って歩く。そのためのトレーニング(肉体の鍛錬)を、昨年末から始めている。しかし、私は到底この私の体力を過信できない。が、それと同時に、私は「作家を舐めるんじゃないよ」とは思っている。やれることをやる。ただし、オリンピックがどうなるのか、だけは私には左右できない。