「明けている」世界へ

「明けている」世界へ

2021.01.09 – 2021.01.22 東京

ふたたび「明けましておめでとうございます」と言いたい気分に駆られているのだが、それは人生最大級の仕事をひとつ、ほぼ片付けたからである。今週(1月18日〜)の初めに、とうとう全部の原稿を脱稿した。全部の、が何を意味するかを解説すると、今年の3月頭に出る本の、である。この単行本のゲラも、さっき山場は越えた(と思う)。ありとあらゆる作業が終わるのはもちろん来月のどこかになるわけだけれども、「出せる本」が用意できたことが本当にうれしい。自分に乾杯したい。

どういう本なのかと説けば、昨年、ずっと「群像」誌に場所をもらっていて、かつ、昨年、ずっと歩きつづけていたことに関する、と言えば、まあ説明は完了したも同然だろう。発表の形態はかなりイレギュラーなものになる(順次、情報をアップする)。私がいちばん言いたいのは、「おれはこの主題に関して、怒りからは離れた。大声で何事かを訴えるような、そういう暴力性からは離れられた」ということだ。結局のところ、私は震災以降に「ある人たちとある人たちが怒鳴りあっている。ぶつかりあっている」ような様相が、本当にいやだった。そういうところにいたいと思わなかったし、もしも人びとが「震災のことを忘れてしまった」のだとしたら、それはやっぱり、怒りのぶつけ合いのせいがおおきいんじゃないのかなとも感じてしまう。

怒って、何かが変わるんならば、それは応援する。怒って、誰かが〈寂しさ〉のようなものから解放されるんならば、それも支持する。でも、そういうんじゃないんだったら、違う方法を探したい。あるいは「探そう」と足掻いている人の、ものの、世界の、そばにいたい。

コロナ禍が大変だな、面倒だなと思うのは、やっぱり「『悪者は誰か』探し」にいつも終始してしまうことで、どうにかこの2度めのステイ・ホーム的な時期も、そういうのからは離れて、とにかく人と人とが(あるいは世界と世界とが。猫と犬とがだっていいんだけど……)その〈寂しさ〉から解き放たれるような道に向かいたい、と感じる。きっとできるはずだとは思うんだけど、そういうことをぶち上げると「あいつ、呆れた人道主義者だね」みたいになってしまいそうで、ぶち上げずに進みたい。だいたい、人道主義者は猫と犬とのことは考えない。私はもちろん動物愛の立場にも植物愛の立場にも鉱物愛の立場にも、もしかしたら化石燃料の視座に(ってどんな視座だろう?)だって立ってしまうのである。

なんかもう、いっぱい仕事しちゃおうかな、とも考えてしまうが、とはいえ〈年末年始完全返上〉モードだったので(例年より苛酷だった)、まあ少しは休憩しようとも思う。というわけで「明けましておめでとうございます」パート2である。