協力、是すなわち強力

協力、是すなわち強力

2021.02.13 – 2021.02.26 東京

私は珍しく高揚しているのだけれども、それは、明日〈撮影〉というものを控えているからで、いったい何を撮影するのかと言えば、朗読劇「銀河鉄道の夜」を撮る。それは『コロナ時代の銀河』という題名の、無観客の野外公演の記録……になるはずだったのだけれども、そうした説明書きの規模を越えようとしている。いつものことと言えばいつものことなのだが、真剣に「創る」ということを考え出すと、予定調和の枠組みに入ってしまったり、ある種の受け手に忖度するような表現から、私は離れる(という性向・傾向を持つ)。そして、いっしょに行動する仲間がいる時、彼らもやはり、強烈に〈オリジナル〉なものを創らんとする。喜ばしいことだ。本当にうれしい。

が、撮影が無事に終了するまでは、いかなる映像作品が生まれるのかは、あまり「イエー! 凄いことになるぜー!」とは言えない。ただし、脚本を書き上げた時には、私は相当な手応えを感じた。メンバーからも、強いコメントをもらった。自分の人生をふり返ってみても、最初から「映像作品用の脚本」というものを執筆したことは、私はなかったのではないか? もしかしたら、二十歳過ぎの頃に書いたのかもしれないが……記憶には「ない」と言ったらない。それは未知の森に分け入る行為に似ていて、すなわち、巨大な小説を築きあげんとするのと同じ姿勢で、私はこの『コロナ時代の銀河』の脚本に臨んだ。

問題は、今晩、ちゃんと寝て明日の撮影に備えられるかだ。私は「遠足前の興奮した小学生」になりがちな性質なのであって、どうにか気をつけたい。それから、明日、撮影現場に赴くまでに、まだまだ考えなければならないこと・練習しなければならないことがある。たとえば私は収録中にサランラップを扱わなければならない予定だが(……どうしてだ?)、考えてみると、自分がちゃんとラップを使用できるのか、心許ない。なにしろ私は、コンビニのおにぎりの包装が剥けない人間なのだ。あと、電子レンジというものが、基本的には扱えない。今回の撮影を機に、駄目人間を脱したい。

新刊『ゼロエフ』の、見本完成の日が近づいている。もちろん刊行日も。すでに8紙誌からの取材を受けて、語れることは語った。また、海外の新聞(イタリアの Corriere della Sera 紙)の長いメール・インタビューに答えた。同紙には、じつは昨秋、福島の旅に関して長めの原稿を発表した。日本で手に入らないメディアに関しては、このサイトでも情報を出していないのだけれども、遠いどこかの、言葉も通じない人たちに、翻訳を手がけてくれるような「仲間」の手で、自分の言葉が届けられるというのは、いつもいつも思うのだけれども、奇蹟のように感じる。

『ゼロエフ』の装幀は、拙著『南無ロックンロール二十一部経』や『木木木木木木 おおきな森』等の水戸部功さんで、期待を裏切らないタフさを打ち出してくれている。「震災の本だから、優しげに」などというのは、私(私たち)の基本スタンスには、ない。出版の領域こそは私の主戦場だ。そこで私自身が〈オリジナル〉でなければ/あり続けられなければ、そうではない場所での〈オリジナル〉など、どうして可能なのか? そして、どうやって人びとに〈オリジナル〉を呼び起こせる触媒となれるというのか? よし、覚悟を決めよう。というか、いまさら日和ろうとしても、できんよ。

(余談だが、カップ麺のペヤングの、〈オリジナル〉な味シリーズの探究心に、いまさらながらなのかもしれないが、ヤラれた。学びの場というのは、どこにでもある)