経過報告(実況)

経過報告(実況)

2021.04.24 – 2021.05.14 東京

4月26日の月曜日から連載小説『曼陀羅華X』の集中執筆期間に入り、この小説の脱稿を6月5日の土曜日に定めた、とは前回書いたが、その集中執筆期間が3週めに入った。ひとまず2度は地獄に落ちて、凄絶な様相だったが、3週めともなると作品と自分(の生活)とが同期しはじめている。つまり、言葉を換えると、だいぶ調子がよい。私はこの期間に入ってから、当然のように『曼陀羅華X』を終わらせるということを考えているわけだけれども、じつは同時に「フィクションの構造とはなんなのか」と考えつづけている。ノンフィクションの『ゼロエフ』を上梓して以降(あるいは『ゼロエフ』の第3部を執筆して以降)、ずっとそうだ。フィクションの構造とはなんなのか?

それに対しての答えを出すことは、たぶん、「自分の文学とはなんなのか」を言い切ることで、こうした問いに直面しているということは、たぶん、私はこれまで「自分の文学とはなんなのか」がわかっていなかった。私は物凄くシンプルに、言葉をツールに物語だの展開だのをやることが小説、だとか定義していて、しかし、これは単に〈小説〉の定義でしかなかった。私が考える〈小説〉と〈文学〉は違うし、それから紙誌に(またはインターネットに)発表される文章と、〈本〉も違う。ほとんど決定的に違う。いま私は『曼陀羅華X』を脱稿することを考えているのだから、つまり『曼陀羅華X』を〈本〉にすることを熟考しているとも言えるわけで、そのように〈本〉になるものは、そうではない文章とはドライブする勢いだのパートごとに託された役割だの、すべてが違う。

何かははっきりつかめているのだが、それはきっと、私がギガノベルの『木木木木木木 おおきな森』とノンフィクションの『ゼロエフ』を経て、やっと認識しつつある地平なのだ、と感じる。私の前にデータは揃っている。データというのは、これまでに書いた原稿であって、原稿用紙で2万枚はとうに超えている気がするのだけれども、それらを素材に、やっと〈理論〉を打ち出そうとしている。しかし証明はできるのか? まずは特殊相対性理論が要る。それが『曼陀羅華X』になれるか、どうか。もちろん、その後には一般相対性理論が来て、私はそれから量子論にも飛んで、その後に〈文学〉そのものの解明に挑む、……という筋道はある。しかし生きていられるのか、そこまで?

生きたい。ああ、もう。こんなことを書こうとしたのではなかった。私は今月発売の文芸誌「すばる」と「新潮」とに、それぞれ大竹昭子さんと開沼博さんの『ゼロエフ』書評が載って、それぞれのアプローチの違いと深さに、読んで物凄く揺さぶられた。それぞれに感動した。私は、『ゼロエフ』内で、たしか「いちど歩いた行程を、もういちど歩き直すのが執筆である」的なフレーズを書いた。360キロを2度歩かなければ、ああした本は作りあげられなかったということだけれども、大竹さんや開沼さんの書評は、さらにそこを2度歩き直している凄みがある。これは私が昔から言っていることだが、どうして「音楽は何度も聴かれるのに、小説は『読むのはだいたい1回』で、下手したら読み終えると売りに出されてしまう」みたいな感覚になっているのか? 世間は。私は、好きな本は3度読むし、4度読む。私はこれまで、2回読んだほうが深まる小説を書こう、とは思っていた。しかし、いま望んでいることの射程は、もっと遠い。

もっともっと書きたいことがあった。しかし、まずは『曼陀羅華X』の世界に戻らないと。