無力と微力の相違

無力と微力の相違

2023.05.13 – 2023.05.26 東京・埼玉

本格的に執筆に復帰したのは今月の16日からだった。それまでは福島関係の仕事や、フランスの高校生たちとのオンライン交流(『平家物語 犬王の巻』と湯浅政明監督の『犬王』を読んで・観てくれている)の準備、本番等に追われた。そしてなにより朝日新聞の「文芸時評」に取りあげる作品を決めるための、相当な量の読書に追われていた。が、まずは、本格的に執筆に復帰して、何を考えているか、を記す。

自分の無力ばかりを感じている。頭にイメージがあり、事前に膨大な準備(資料調査など)をこなし、メモも取り、「これでどうにかなるだろう」と構えているのに、1時間に数行しか書けない。どうしてこういうことが起こるのか、いつも不明だ。たとえば批評だの、エッセイだの、この「現在地」にしてもそうなのだけれども、書かんとする内容が固まっていて、実際に執筆するための準備を終えていたら、十中八九は書ける。なのに、本格的に自分の〈表現〉というものに臨むと、作品世界から跳ね返されるというか、弾き飛ばされることが起きる。

しかも体調を崩していた時期が長かったものだから、どうも、この〈肉体〉なるものが作品世界にダイブするのを妨げている。無力だなあと思う。今日だって、午前中には2時間で600字しか書けなかったのだ。しかしながら、いま現在思っているのは、無力であれば0字しか書けないが、微力だから600字書けたのだろう、ということだ。この事実を、ある意味での真理と私は考える。

朝日新聞の「文芸時評」は最終金曜日に掲載となったので、もしかしたら何度かに1度はこの「現在地」のアップと重なる。今日(2023/05/26)もそうだ。今回の時評では5作品を取りあげた。つまり、それに数倍する作品に目を通した……と言える。なんでそういう大変なことをやっているのかというと、〈文学〉の土壌を豊かにしたい、少しでも肥沃にしたいと願っているからだ。自分自身、よい作品と思う小説を発表したのに、誰にも読んでもらえていないのではないか、と呻吟する場合がある。もしかしたら結構ある。こういう時、自分はこの〈文学〉の大地から芽を出して花を咲かせたいのに、どうも大地自体が痩せていた、みたいに感じることが多い。で、大地って何かと言ったら「植物たちに養分を授けてくれるもの」だろう。自分は無力な存在だけれども、この自覚は間違っていて、自分は「『微力』な存在」なのかもしれないと思い直して、だから、それだったら栄養をちょっとは他の作家に、他の作品群に与えられるかな、とか思って(それは思いあがりかもしれないけれども)、いま、頑張っている。いま、無理して読んで頑張っているし、ここから長めのスパンでも、やっぱり踏ん張ろうと考えている。

それと出身地の郡山市から、「郡山市フロンティア大使」を委嘱された。これは本当に光栄なことだ。こういう時もやっぱり、無力な自分には何もできないよな、と思うのだけれども、たぶん、それだって嘘で、私は微力なのだ。微力なんだから、郷里のために、たぶんダンゴムシ的に貢献することはできる。どうしてダンゴムシかと言うと、雉鳩荘の庭をいじっていて、いわゆる〈土壌分解者〉がいちばん重要だと実感しているから。ダンゴムシがいなかったら、どういう庭が生まれるか?

枯れた庭である。

つまり庭は生まれない。そんなふうに言っちゃってもかまわないのだ。

さて、それでは明日からも。自分が微力だと実感しつづけよう。明日何枚書けるのかはわからないし、明後日何枚書けるのかはわからない。それでも締め切りは到来するし、しかし、まあ、数日は延びる。あとはデッドヒートになるんだよ。……でも、ダンゴムシって直線を1日で何十メートル、何百メートル歩けるのかな? 意外に1000メートルとか行けそうな気もしてきた。