ポータブル極楽浄土プレイヤー
2024.05.25 – 2024.06.14 東京・埼玉・神奈川・静岡
5月25日から脱稿まで、極度に規則正しく、充実した、緊張した、そういう日々を過ごした。前回の「現在地」の段階で新作は残り6章、見込みとしては(残り枚数が)60枚ほどになっていたと記憶している。その間には29回めの結婚記念日もあり、自分の新作詩の掲載された「現代詩手帖」6月号の発売があり、自分の肉体は書かれている作品の古代から中世と、現在の詩の次元と、ひたすら鍛錬も続ける地上の次元と、たぶん、みっつの〈世界〉に同時に存在した。執筆の最後の3日間、つぎつぎとビジョンが獲得されていった。むしろビジョンは「向こうからやってきた」と形容するほうが実情に近い。こうしたことが起きはじめるのは久々だという感触はあった。自分は〈入って〉いるのだなとはっきりわかった。
脱稿して、その少し後に、それから数時間後にも、ほとんど超常現象と呼べるものが雉鳩荘から徒歩10分圏内で、また雉鳩荘内の仕事部屋で生じた。そういうのも久々だった。要するに「俺は、書いている」との実感が俗世的なリアリティ、リアリズムを破壊しながら邁進したわけだ。そして「俺は、書きあげた」との体感はマジカルなリアリティとして噴出して、それはハイパーリアリズムを許容したわけだ。脱稿して、「あ。傑作だ」と感じた。思わず担当編集者のキさんに「傑作になったと思います」とメールをしてしまった。そんなことを自分から書いた経験は、たぶん過去にない。つまり結局のところ、私は過去には書いていなかったし、書けるはずもなかったものが今回書けた、ということだろう。そこでの学びは本当に大きい。
とはいえ力尽きた。……尽きたのだが、出かけねばならない場所・土地は複数あり、さらに書かなければならない重要な原稿はもっとあった。いま現在もまだ「書かなければならない」ものは残っている。ここからは非常に無茶をしたわけで、それを古川日出男の状態だと言ったらそのとおりなのだと首肯するしかないが、かなり際どいところに自分がいるなとは感じた。しかし、久々に小説を執筆することで「肉体を持ちながら浄土を再生する(。そして書き終えたらこの地上=穢土に後退する)」ようなことができたので、いやまあ、この感覚に関してはこれ以上は言葉を換えては描写も説明もできないのだけれども、あと半歩、どうにか喰らいつきたいと念じた。ふたつめの原稿も今週には突破した。簡単にまとめれば、ひとつめの原稿にして新作の小説は、日本を近代の視点から中世、古代に接続するところまで掘った。と同時に空間的にひろげた。ふたつめの原稿、これは論考なのだけれども、こちらではグローバルな空間のひろがりを文学論のような形態で探索していった。と同時に、時間的にも掘らない行為は無だ、と言い切ったような感触がある。
ひとつめの原稿からふたつめの原稿に移行する時、全身が縦にまっぷたつに裂かれるような感触があって、事実として痛かった。原因は何か? ひとつめの原稿、繰り返すがそれは小説で、しかも手書きで書き出して手書きで書き終えた。そこから、いつものようにコンピュータを使用した執筆に跳ぶ際に、そのふたつめの原稿、さっき言った論考だ、こちらが「書けない」みたいな様態に押し込まれた。たぶん、コンピュータにある「削除キー」というものが、文章を〈産む〉という行為の源泉のようなところにある聖性を殺している。それからコピーのコマンド、ペーストのコマンドもそうだ。つまり自分が全身を使って悟ったのは、デリート、コピー、ペーストの可能な執筆環境は、なんだか妙だ、という結論だった。
これはAIの否定の何段階も「横」に吹っ飛んでいるような結論だし、しかし、テクノロジーの進化・進歩を止めるとかなんだとか、そういう議論のある種の不毛さに巻き込まれない事実のひとつの〈相〉なのではないかとも感じている。
さてパンオペは見本がもう完成した。パンオペ内では、別にオペラが小説になって展開して云々、では何も終わっていないし何も語られていない。そこにはテクノロジーはなぜ進化するのか進歩するのかへの考察と(私個人の)回答も書かれているし、そもそも「人類とは誰なのか?」との問いへの、これはもう乱暴極まりない問いであるわけだけれど、それへの〈解〉へと向かおうとするベクトルもある。これほどジャンル指定不可能な散文作品となったのは、私たちの現世=俗世=この穢土が、そもそも、そういう姿形をしているから、なのだともある側面からは言い切れる。パンオペはノンフィクションだし思想を追求する文章作品だし戯曲的なフィクションだし小説的なフィクションだし詩的でもあるだろうし、また世界的でありながら私的で、そうした文章を指す時に私は、これは小説だ、と言う。そういう意味合いでしかパンオペは小説ではない。
『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』は、もちろん「紫式部日記」という古典の現代語訳で、しかしそれだけではなかった。紫式部がこの翻訳にコメンタリーを添えていて、紫式部はこの現代語訳の主体だった。そういうことをきちんと説明するために私は「これは小説だ」と言って、しかし、そのことは結局「世界をジャンルに分けたい」感性にはクエスチョン・マークをもたらす結末にしかならなかった気がする。それどころか「これってジャンルはなんなの?」とすら眉間にしわを寄せて問われた、作者のこの私が問いつめられた気もする。
いいじゃないか、それが小説で。
何が問題なんだ?
「ジャンルに分けて安心安全」はもうやめたいってことで。現世が混沌としているならば他界もまた混沌としているはずだ。それを〈一冊の書物〉という形態で再生する装置、それが本だ。私は、この場合は、「それが小説だ」とここで言いつづけている。