読む・考える・抗う

読む・考える・抗う

2024.06.29 – 2024.07.12 東京・福島・埼玉

歩きつづけている。読みつづけている。人にも会いつづけている。いま小休止しているのは「書く」という営為で、と言いながらこの「現在地」は書いている。どうなんだろう、この現在地は書いているんだろうか? これは声を届けている文章なのだ、という感じが私自身はしている。これはどこかからのレポートなのだという感覚がずっとずっと私にはある。つまり私は報道員なのだ。古川日出男が歩いたり、読んだり、それから創作のために言葉を発したりしている現場の、すなわち「書かれている『次元』」世界のレポーター。昨日(2024/07/11)古川は58歳になった。その6日前に文芸誌みっつに原稿を発表した。相当に方向性が異なるけれども、しかし、たぶん、みっつの角度から同じような的を射ようとはしている。そして、思うに、その異なる角度から「見られているところ」こそが、さっき記した「書かれている『次元』」の存在する時空なのだ。

「群像」8月号に一挙掲載となった小説『うつほ物語』は、その内部で〈物語の数学〉という言葉を出す。「文藝」秋号の世界文学に関する論考「文学の時差」は、そのタイトルどおり〈文学の時差〉を見据えている。「新潮」8月号のガルシア=マルケス『百年の孤独』特集に寄せたエッセイ「小説の魔術」は、マジックリアリズムを文学理論ふうには解析しないで〈小説の魔術〉とはなんなのかを体感できるように書いている。つまり、私は57歳が終わる何日か前に、まとめて〈物語の数学〉と〈文学の時差〉と〈小説の魔術〉という鍵語を出した。たとえば『うつほ物語』であれば、出した鍵語をそのまま創作として実践もした。

すでに小説が、本が、文学が廃墟化するような時代に入ったのは承知している。しかし(これは私はいつもいつも意識していることだが)何かが終わる時代というのは何かが始まる時代なのでもあって、それは単純な断絶、断層としては現出しない。この点はどうしても見誤られがちだ。本質というものは継承される。見限られて棄てられるのは表層だ。そう確信するから私は、幾つかの本質として上述のみっつ、すなわち〈物語の数学〉と〈文学の時差〉と〈小説の魔術〉をまとめて出した。

これまでの57年間もずっと本を読んできた。実際には50年間しか読んでいないはずだが。というのも私は小学2年生から「読書」を体験として・経験として・極めてアクティブな営為として意識しはじめたから。しかし読みつづけてわかったのは、自分が求めている本は私に「何かを考えさせる」ということだった。読めば、考える。考えさせられてしまう。そうするとどうなるか? 世間に対して従順にならない。それは自分が(10歳だの20歳だの50歳だのの頭でもって)考えたこととは違うからだ。ということは、どうなるのか? 抵抗する人間になる。私は抗っている。

私はずっとずっと抗っている。

それは私が読書によって、さまざまな本質をインストールされてしまったからだ。そして本質の継承のみに傾注すれば、フォーカスを絞れば、いま私たちの四囲にひろがり圧殺を予感させている、この、「廃墟」を破壊することも可能になる。それが建設行為に見えるフェーズは確実に存在する。