歩いている、見ている、感じている
2024.07.13 – 2024.07.26 東京・埼玉
先週の木曜日(7月18日)に20キロを歩き通せる肉体に戻し、今週の水曜日(7月24日)には最高気温が36度ほどに達するなかでもノンストップで10キロ歩けるように仕上がっていることを確かめた。最近の急冷グッズの進化は凄い。もちろんそうしたグッズに私は助けられるのだけれども、恐いのはゲリラ豪雨だ。私は、あと少しで、計画しつづけた行動に入る予定で、しかし体力だけではクリアできない。雷雨が訪れたら逃げ場のない場所を、私は歩きつづけるだろう。やや恐い。だけれども〈死〉に近い領域に臨む必要があるから、私はそれをやるだろう。
その計画を見据えて、トレーニングを進めて、しかし同時に朝日新聞の「文芸時評」を質を落とさずに書きつづけ(る前に読みつづける、再読もす)るのは相当にきついが、ひとまず今月も突破できた。あとは心の底から望むのは「創作したい」である。もろもろの作業はまだまだ続きそうだ。たぶん10月には完全に「新しい作品世界(たち)」と格闘しはじめているのだろうと想像するが、どうなるか。が、正直に言うと、あんまり未来を直視するのはしないように努めだした。なぜならば、歩いている時、自分の周囲の〈世界〉がふいに全方向から押し寄せて、心身を満たす瞬間がある。場合によっては〈瞬間〉は1時間超も持続する。そういう局面で感じるのは、「ああ、俺には『現在』しかない」であって、それはビジネス的な数字至上主義的な、すなわち末期の資本主義的な「マネーのために現在に特化する」姿勢とは、まるっきり裏側にある、と直覚される。
3日置きに同じ場所を通ると、啼いている鳥の種類が変わっている。虫の種類が変わっている。繁茂する植物の種類も変わっている。しかし彼らにも「『現在』しかない」のだ、とも了解される。
それから〈死〉は間近にあるとも了解される。覚悟を決めろ、と言われているようだ。誰から? たぶん〈世界〉から。
昨日(7月25日)には山村浩二さんのアニメーション「とても短い」のジャパンプレミアとなる上映会が行なわれた。メイキングの背景を山村さんが画・音つきで語ってくれて、そのなかにはレコーディングの際の私の「本番には使われなかった朗読」9種類を含めた、10バージョンの披露もあった。私は山村さんのディレクションやプロデューサーのマイケル・エメリックさんの求めに応じて、じつは川(それも隅田川)になったりビル(それも巨大なビルに挟まれた小さなビル)になったりして、声を発してもいたのだった。よもや、それらのレコーディングの詳細な記録に自分が触れ直せるとは思っていなかったので、うれしいサプライズだった。
また、私は山村さんとぜんぜん面識がないのに「監督(制作)は山村浩二さんにお願いできれば……」と企画のいちばん最初の段階で言っていて、かつ、山村さんは音楽の伊左治直さんとじつは面識がなかったのに、この「とても短い」のためのオリジナル音楽をオファーされていて、しかも、昨日の会場にはこの3人には共通の友人がいる(!)ことがわかって、などとプロジェクトの無謀さと〈運命〉性も明らかになった。それはとてもとても素敵なことだった。なんだかなんでも、とても、とてもなのだった。
そして〈死〉が間近にあるのだから、むしろ〈生〉を徹底しよう、と思うのだった。とても思った。さて、私は自分の無事を祈る。そうして無事に帰還して、つぎに出す本と、つぎに書きはじめるであろう本たちに、真摯に前向きに健康的に、かつ〈呪術〉的な力もいっぱいに向き合う姿をイメージする。