到着・出発

到着・出発

2024.07.27 – 2024.08.09 東京・埼玉・京都・福島

私がいま本当に大切だなと感じていることを最初に記す。必要なのは〈知識〉と〈思考〉と〈行動〉だ。〈知識〉とはファスト教養とはまるで異なる類いの、そこから自らの考えを発生させる基盤となるものを指す。それを持てるか。あるいは、何が基盤として「いまの自分に足りないか?」を意識できるか。もし、できないとしたら〈知識〉が足りない。結局のところ、ある程度のボリュームの〈知識〉は自らの〈知識〉の欠如を認識させる。ひとまず、その域までみな行き着いたほうがいい。

〈思考〉するとはどういうことか。それは型に嵌まった答えに辿り着かない、をしばしば意味する。何かを自分が訴えたいとして、その根拠に「Aは駄目だ」があるとしたら、そんな考えはほぼ無意味だ。なぜならば、それはあなたがいま否定しているAをこそ基盤としているのだから。あなたの正しさがあなたが潰したいAを欲しているとしたら、なんら価値がないことはわかるだろう。もし、AとBとが対立している時に、真に考えるとは、Aにも若干重なりBにも重なり、あるいはAともBとも重複しない領域に立ち、といった、かなり難しい結論を「つかんでしまう」かもしれない行為であって、その恐怖を直視できるか。もし、できないのだとしたら、あなたは真には〈思考〉していない。〈思考〉しはじめていない、と言える。

〈行動〉にはいろいろある。私が小説を書いたり戯曲を書いたり批評を書いたり詩を書いたりする、これらは全部〈行動〉だ。また、あるべき〈行動〉とは政治的行動だ、と言う人もいるだろう。しかし政治的行動を政治的に行なわないところに「政治的行動がある」とも指し示すことだってできる。再来月に発売される「MONKEY」誌のために私は自分の連載『百の耳の都市』の最新話を書いて、つい昨日(2024/08/08)入稿したのだけれども、そこではパレスチナ問題をガザという語もイスラエルという語も出さないで書いた。だから、それはパレスチナ問題の小説ではない。しかしパレスチナ問題の小説なのだ、と感じる人は感じるだろうし、そうした認識につらぬかれて愕然とする読者も生まれるかもしれない。それはもちろん政治的行動だ。しかし、この小説はもちろん政治的行動を意識させる小説ではない。単に〈行動〉を感じさせるだけ、だろう。

そして私がある意図に基づいて歩いてしまう時、それは文学的行動だ。

文学は文字だけで産出されるわけではない。これは立ち会った人ならば首肯してくれるかもしれないが、私の(失敗していない範囲での)朗読という行為は〈文学〉だ。文字を書かないでも、文字を発生させて、届けられている限りは〈文学〉だ。ということは、琵琶法師たちが演奏し語った『平家物語』はもちろん〈文学〉だった、と言い切れる根拠になる。

とりあえず私は歩き切った。最高気温が37度を超えるのだとしたら、その〈行動〉はやめる、とは決めていた。しかし超えなかった。先月、その時は38度台の最高気温を2度マークしていて、これは本当に臨死のような可能性もあるなと考えた。しかし私はこの〈行動〉において単独行を決めていたので、いかなる判断も自分自身でできる。瞬時、瞬時、きちんと考えを決めること。それをやって、その日に私は定めていた目標地点には到着した。あとは、それを言葉で書き記す、という出発に向かうことである。出発にとって肝要なのは、この場合は「到着しなければ、(次の)出発はない」とのビジョンだった。

今回のこの「現在地」は私はかなり漠然と書いている。なぜならばクリアに書くべきは出発後の文章においてだ、と見通せているから。わが58歳の肉体はきちんと鍛錬すればちゃんとした結果を出してくれた。となると、残りは精神の問題だ、ということにもなる。結局、だからこそ〈知識〉と〈思考〉である。そして再度の〈行動〉が来る。やれやれ、それにしても私はなんにもあきらめちゃいねえな。来月は映画『平家物語 諸行無常セッション』のために人前にも出ると思うので、さて、さらに力を溜める。