なるべきかたち

なるべきかたち

2024.08.10 – 2024.08.23 東京・埼玉・福島

初めに報告からゆくと、先月「群像」に発表した中篇『うつほ物語』はこの秋のうちに単行本として刊行される。その題名(書名)だが、文字数はそのまま変更される。つまりタイトルは5文字であることには変わりはない。しかも、そのうちの2文字は変えられないのだとも言っておく。それでは『うつほ物語』はどの2文字を残してどんなタイトルになるのか? というのは、もう少し刊行時期が近づいてからの「最新報告」とする。いまの時点でさらに加えて報告できるのは、すでにゲラの通読は3度めに入っているということだ。徹底的にやっている。

この小説はすでに〈なるべきかたち〉が見えているから、それに合わせて推敲するだけである。ひじょうにシンプルな作業指針だと語り直せる。たとえば、これはどんな小説でもだが、書こうとする前・書いている時・書きあげた直後・書きあげてしばらくしてから・雑誌掲載時など、のそれぞれの時点で、あるイメージを自分(という創り手)に与える。で、雑誌版や単行本版のゲラ等を読む。すると「あれ? こんな作品だったっけかな?」と首を捻ることになる。イメージにはつねにズレが生じるのだ。

それを、現在の頭にあるイメージに適合させる、というのが推敲の実際となるのだけれど、ここで問題。「現在の頭にあるイメージは、正しいイメージなのか?」と自分は考えられるか? もしかしたら出発時点(とは起筆前後の時点がふつうはそれに当たる)のイメージに合わせるべきなのではないか。いやいや、脱稿直後か、直前の時点のイメージこそが、その作品の究極の〈像〉なのではないか? いいや、いやいや、脱稿する際には不用意な高揚状態に書き手は置かれているのだから、冷静なる〈いま〉つまり現在の頭にあるイメージこそがやっぱりベストなんだよ、と悩み出したらこの悩みだけで半年は楽しめる。そして、そんなもので楽しんでいたら、その作品はすでに死んでいるのである。

どちらに向けて、どのように、何を削って何を足すという推敲がイメージできるか、そのような〈像〉を持てているか? 結局のところ、それがすべてだ。しかし、ここでふたつめの問題。「なるべきかたちとは、誰にとって『なる「べき」かたち』なのか?」が出る。最終形はどういう方向にあるのが正しいのだと、誰が決めるのか? の問題。

それを作品に決めさせたい、というか、作品の乞い願うところを作者として掬いあげたい、との気持ちがやっぱり現在の私はいちばん前面にある。

標準型というイメージが存在して、そこに適合させるのが〈商品〉である。そして、人びとが平均的なかたちになりたいだとか、なれないでいるから劣等感をおぼえるとか、なるために金と時間を使う、つまり自分だとか自分に関係する人間たち、組織(共同体)にも、に使わせるというのは、要するに人間の〈商品化〉である。どうしてそんなにそんなにそんなに、そんなにも、標準型が恋しいの? どうして生きているのに〈商品〉になりたいの? いや、別になりたいわけじゃないんだと思う。ならないと「駄目だ」と言われてしまうような、そういう負の圧にずっと私たちは囲まれているんだと思う。

負の圧に対抗するものは?

正の圧である。

つまり〈正しさ〉はそこにしかない、と2024年8月の私は見据えている。