速さと深さ
2024.08.24 – 2024.09.13 福島・東京・埼玉
信じられないような人間関係に恵まれて、一族(とは古川家のことだ)の歴史のぜんぜん知らなかった逸話に唐突に触れて、福島から戻り、朝日新聞の「文芸時評」のための作業に没頭し、それが終わるや否や、シリーズ『あるこうまたあおう』のための新しいエピソードの執筆準備に入り、だがその前に10月下旬刊行予定の単行本『うつほ物語』のゲラ戻しの作業があって、そうだ、そこだ、その話から詳述する。「群像」誌の8月号に一挙掲載された『うつほ物語』は、タイトルの文字数はそのままに、また、旧題のうちの2文字はそのままに、しかし完全に新しい〈名〉をまとって世に出ることになった。その書名は、『超空洞物語』である。
要するに空洞を意味する「うつほ」の3文字では足りなかった。と、言える。超「うつほ」でなければならなかった。なぜならば、私はいわゆる安心安全な古典の翻訳などやっていない。これは古典の『うつほ物語』の現代語訳でもない。徹底的な戦闘状態に自分がこれから突入するための、いわば最後の地ならし、あるいは最新の地ならし、つまり最新で最近のそのラディカルな行動、となる。こういうことが理解されるかどうか。たった190枚の小説にどこまで世界の〈打ち壊し〉やその後の〈再生〉が託せるか。どうやったらこの『超空洞物語』のエンディングのシーン、エンディングの地平にまで読者に歩いてきてもらえるのか。もし、そこに読者が立ってくれたなら、その人は作者の私のかたわらにいる。
しかし『超空洞物語』が本になるのはもう少し先だ。そして私がこの本の初校を戻して、いっきに没入したのは『あるこうまたあおう』の第2話で、最初の2日間は吐きそうだった。ひとつの〈行動〉を生き直す、というドキュメントを、嘘を交えないで書き進める、すなわち「書きながら生きる」ということができるのか? たぶん、できたと思う、としか言えない。9月になっていた。やや苛酷すぎたことにこの4月から関わっている映画の仕事が半日だけだけれども飛び込んで、そこに対応する際にも身体がふたつに裂けそうだった、が、ぶじにこなした。そして即座に『あるこうまたあおう』にダイブし直した。脱稿した。ということは、この原稿のエンディングに到達できた、ということだ。私は、作中にいる古川のかたわらに立てたのだ、とも形容し直せる。
それから邦画洋画アニメと映画を観た。3本も4本も5本も観た。そのうちの2本に、劇烈に魂をもっていかれた。そうした作品が存在することが嬉しかった。そうした作品によって映画館内なのに号泣しそうになって、必死に堪える、なぜならば前席の若いカップルはそこまでシリアスに観ていないので苦笑されそうだなと思ったりもして、ということはまあ、どうでもいいや。誰かはクールに観られる作品や物語があって、同じ作品や物語が、他の誰かをわんわんと号泣させる。その違いこそが、本当の意味での〈多様性〉だと思っているし、そこにこそ救いがあるんじゃないのとも私はあっさり言える。
そして9月7日からは映画『平家物語 諸行無常セッション』の上映が開始されて、その作中には2017年5月28日の私がいた。その古川日出男が生きていて、坂田明さん(先輩!)も、向井秀徳も生きていた、2017年5月28日のあの四国を、高知県を、五台山竹林寺を。それを観客席で観る、という行為は、私をやっぱりあの古川のかたわらに据えていたのだろうか、ちょこんと? そうであればうれしい。
そこからの1週間はもう、速度と深度がいっきに次元を変えた。ほとんど時間の流れにちゃんと沿っては思い出せない。ひとつだけ劇烈であるのと同時に劇的に心身に刻まれて、ほぼ〈忘れる〉ことは不可能であるのは、向井秀徳との路上でのセッションだった。「やりますか」との声が向井さんから出て、私はたぶん「やりましょう」とは言わずに、うなずいたか、うなずきながら分厚いテキストを出すか、そういう反応をしていた。テキストは単行本版の『聖家族』だった。菊地信義さんが装幀の、あれだ。あの流亡のメガノベルだ。そして最後はフリースタイルだった。自分が試されていて、試されるのは愉しかった。かたわらに向井秀徳がいることが最高で、向井さんが猛烈に烈々と愉しげだった。5曲。深夜も深夜。
その夜はまだ響いている。そしてまたもや私は朝日新聞の「文芸時評」用に、本の山に溺れている。かつ、これから準備に準備を重ねて起筆を探る2作ほどの物語が、24時間のあいだに幾度もこちらの不意を討って(とは作者の不意を討って、の意味だ)脳裡にカラフルな種を蒔いている。