デザインが書物を生む

デザインが書物を生む

2024.10.26 – 2024.11.08 東京・埼玉・福島

『超空洞物語』の本文は、「光る筆」の章がその書物の上(天)の側に寄り、「琴が鳴る」の章はその書物の下(地)の側に寄っていて、しかし僕=古川日出男が語っている/書いている「超空洞」の章はセンターに配されている。という、このレイアウトを、私はぜんぜん仕掛けていない。私の原稿は手書きされたから、そしてその手書きの原稿の写真はセルフ解説「超空洞、スーパーホロウ日本文学 #02/腕が手が指が小説を生む」のページに載っているのだけれども、極めて一般的なルールに則って書かれた。だから、誰かがこの稀有なレイアウトを仕掛けた、ということになる。それは装幀家の水戸部功さんだ。

たとえばカバーにかけられた太い帯紙の文章(コピー)を眺めれば、そこにある〈空洞〉という2字は、まさに空洞のカプセルの内側に封じられていて、かつ、それはルーペで拡大された印象を具える。たとえばその太い帯紙を外せば、表紙に現われる『超空洞物語』という書名の、その〈物語〉の2字は天地が反転している。それからまた、表紙に表われている数字には何か不穏な進行具合がある。それらは全部、この『超空洞物語』という小説の内容の、具現化である。それを誰が為したか? 水戸部功さんだ。

私は、原稿は書けるが、それを物体にはできない。「それを物体にする人」が批評性を具えて、かつ〈美〉に対する徹底した思考(にして嗜好)を具有する時にのみ、こうした物体は現出する。私はひたすら感謝している。私はひたすら感動している。

しかし、「私は、原稿は書けるが、それを物体にはできない」という通常のモードを、あえて裏切る作業をたぶん来月には実行する。たぶん来年の2月には、それを他者の目に見える形にする。ただし、その「目に見える形に」なった際には、その物体はそもそもの形態をとどめていない、ことになるはずだ。これはアートの領域での創作ともなる。

たぶん私は、来週から現実的な準備に入り、再来週から長い詩を書き出すことになる。

雉鳩荘に暮らしはじめて4年めを迎えた。ここに転居した目的は、以前にも語った、もしかしたら何度も語ったけれども「創作に専念する」ためだった。私の言う創作は、小説には限らない。批評・詩・戯曲は以前から形にしつづけている。そして本気で臨む講演もやはり創作だし、朗読を始めとするパフォーマンス、あるいは演出作業はもちろん創作だ。私が気をつけているのは、それらを〈文学〉をはみ出さない領分でやる、ということだけだ。そして、はっきり言えるのは、私がここで言う〈文学〉の領分は、たぶん他者から見たら簡単に逸脱している。私は越境している。かつ、越境者を抱え込めない〈文学〉などさっさと終焉してしまうだろう、と私はあっさり達観している。

山村浩二さん監督のアニメーション「とても短い」が、先月はポーランドのエチュード&アニマ国際映画祭でグランプリ(金のジャバウォッキー賞)を受賞し、また国内では札幌国際短編映画祭で最優秀コンテンポラリー・エクペリメンタル賞を受賞した。あの映画は、越境性を「すてきなことだ」と感覚しないかぎり、たぶん楽しめない。そして、国外にも国内にも楽しめる方々がいた、という事実が、勇気を与える。

商品だけを眺めていては批評はできない。やりようがない。作品を前にして、何を感じるか、感覚するか? それを感覚したデザイナーが生んだ本が、たとえば『超空洞物語』となる。なお著者(古川)には幸いなことに、読者はその単行本の『超空洞物語』を前にして、読み、感じることが可能になっているのだ。私は深謝する。