腰を据えること≒移動しつづけること

腰を据えること≒移動しつづけること

2024.11.09 – 2024.11.22 東京・大阪・京都・福井

春に『現代詩手帖』のために短詩を書き下ろして以来の詩作を行なった。また、この期間は同時に3府県を短期間に移動するという行動も採った。それらふたつは似ていた。私は今回は長詩を書いて、それは「水霊」という題名を具えているのだが、この「水霊」のためにビジョンを見つづけることは、そのビジョンの〈内側〉を旅することだった。

簡単に説明すると、ある詩作にダイブしようと願いながら、しかし適当に「こんな感じのイメージでいいや……」と思った途端、私が幻視する世界のリアリティは崩れるということだ。すなわち、真の〈詩的イメージ〉とは徹底的にリアリティを有したものである、と、これは私に限定される文学観かもしれないけれども、いずれにしても明確に言い換えられる。

そして、そのような明確な〈詩的ビジョン〉は、ある種の心身の状態を保ちつづけないかぎり、訪れなかったり、訪れても翌日に去ってしまっていたりする。この心身の状態の保持のために、執筆期間のルーティンはあるのであって、また、仕事場をはじめとする「環境の整備」ということもある。つまり私にとって、住居である「雉鳩荘が、そのようなビジョンを収められる容器になっている」次元にある事態こそが、必須の条件となるわけなのだ。

私は雉鳩荘に腰を据える、すると私は、あるビジョンの〈内側〉を奔放に移動できる。これがつまり、旅のような詩作、のかなり正確な解説となる。

実際に移動しつづけた3府県の旅では、まず淀川を見、その中洲に立ち、それから京都に入り、鴨川を感じ、そこから滋賀県に移動して、これは鉄路で「かすった」だけだったけれども車窓に琵琶湖を見つづけた。そして路線バスに乗る、そこから県境いを越える、すると福井県に入っている。最終的には若狭湾に出て、そこにあるのは日本海だった。

この移動の間、私の脳はずっと「今後書かれること」のビジョンを見つづけていた。その意味では、私の脳はある場所に固定されていたに等しい。しかし「今後書かれること」はふたつどころかみっつのプロジェクトに及んでいて、私は雉鳩荘の仕事場にいて、あのプロジェクトからこのプロジェクト、そのプロジェクトに跳ぶかのごとき様態だった。

強烈にさまざまな土地に触れつづけながら、しかし私は、作家としてドッカリと座りこんでいたのだ。そのような感覚を、他者に伝えられる言葉に換えると(翻訳すると)どうなるか? 私は、歓んでいた、となる。ああ自分は作家でいられるのだ、自分は創作者でいられるのだ、と。

「水霊」は来年2月のなかばからのプロジェクトのために書かれた。それは10日ほど後により本格的な作業に移る。そこで私は、ひとつの空間内にとどまりながら「移動を続ける」様子というのを、ある種の〈破壊的創造〉のモードの実際を、徹底的に記録に収めることになるだろう。その記録は、むろん目撃可能となる予定だ。