水霊があらわれる

水霊があらわれる

2025.01.25 – 2025.02.14 東京・埼玉

小説を執筆するという作業は、たぶん誰もが予想できるように「孤独である」わけだが、よく考えると不思議でもある。私には日々生きているこの〈現実〉というのがあって、それから書いている短篇だの長篇だのの小説の〈宇宙〉というのがあって、後者はいわゆる虚構の〈宇宙〉なのであって、執筆のさなかにはこの〈現実〉とそちらの虚構の〈宇宙〉を往き来する。私は、タイプ的に五感まるごとで後者の〈宇宙〉に没入するので、しかもフィジカルな感覚を失わないままそうするので、いわばシャーマン体質なのだけれども、そうすると、「書いている間の古川日出男は、ふたつの世界に存在する」ということになる。そういう大忙しさが、どうして「孤独である」相とつながるのか?

矛盾しているなあ、と思う。じつは虚構の〈宇宙〉にダイブしている時には豊饒なのだ。ぜんぜん孤独なんかではない。前後左右、上下、どこを向いても「感じとらなければならない、描写しなければならない」事象に満ちている。登場人物たちも蠢いている。だから、にぎやかなのだ。いっぽうで、むしろ〈現実〉に帰ってきた時に、「……あれ? なんかシンとしているな」と感ずる。これはたぶん出版業界の勢いのなさと関係している。そのことは銘記しておいたほうがいい。そうしないと「変える」こともできないから。つまり、ほんとは「孤独である」なんてことは、ないんじゃないか、と私は直覚しているんだし、そう断じもしたいわけだ。

本日(2025/02/14)とうとう LOKO GALLERY での「水霊」が開幕した。ここでは私は詩を書いているだけである、と言うこともできる。ほんとはもっともっと、いろいろやっているし形にもなっているが、ひとまず断じ切る。しかし詩篇をじっさいに本(書物)に変えるために、まずインクを選んで紙を選ぶということがあって、そこには友人からの助言があった。大事な協力があった。それからペンは、2本のガラスペンのうち1本は京都で出会っていて、そこには別の土地からの呼びかけがあった。そして二人展のコラボレーターである髙橋恭司さんの作品との邂逅があって、また、恭司さんと同じ行動をする、同じ場所に赴いて、同じ時間を過ごすということがあって、そこから詩篇の核心部はどんどん培養された。それと LOKO GALLERY は渋谷区の代官山にあるが、この土地(代官山、さらに渋谷区全域)の土地の記憶に私のほうから呼びかけるという行為があって、20代の半ばに自分が4年間渋谷区に住んでいた、という記憶を見据えて、若い「古川日出男」と協働するということも(たぶん)あった。LOKO での制作は、12月のそれは2日間だったのに明らかに異界に跳んで20時間だの200時間だのを感じさせる〈何か〉をしたのだが、それを映像に記録する2人がいて、いや、実際には生まれる本や生まれたけれども消失(焼失)を強いられる本をスキャンする、そこから生まれる映像があったら記録者はもっと存在して、さらに映像を編集するスタッフが別にいた。これもスキャンの映像をカウントしたら複数いる。マイクを通して収録された音声の編集、というのもあった。これも私ではない人が、その独自の判断で、的確な作業を進めてくれた。

ここまでで何人だ? 京都と渋谷と、しかも自分の30年前の渋谷と古墳時代の渋谷と縄文時代と、いったい何千年だ? そこまで関わった、私は、豊饒に。しかも、私はLOKO で産み落とした本を焼いたのだけれども、それは焼失しきるということはなかった。かつ、焼失したにも等しい部分が、スタッフの手でレプリカの書物として再生して、その〈再生した本〉を収める箱の全部のデザインもスタッフが創造的に行ない、そこでは私の本の数は増えている、あらゆる形態を採り、紙の形でも複数ある、かつ映像もある。制作風景の映像もある、焚書時の、いわば〈儀式〉のドキュメントも。それらを収めた箱は、LOKO メンバーが〈カプセル〉と命名した。

すでに「水霊」のそのカプセルは誕生した。販売もされる。かつ、私は展示空間を、どこかで生きているものに変えた。再生はもう始まった。作品リストで「焚書の火はもう消えた/井戸の水は涸れた/しかし苔がある/ならば水もどこかにある」と題されている私の展示を、鑑賞時の往きと帰りに、そのような感覚で見てほしい。

明日(2025/02/15)はオープニングレセプションで、トークも行なう。たぶん、ただワイワイとやれると思う。

さて、それ以外の報告。山村浩二さんの監督で私のテキスト(原作)と声(朗読)のアニメ『とても短い』が第17回パリ国際アニメーション映画祭でダダイスト賞を受賞した。「実存主義とシュールレアリズムへの頌歌(オード)」との評! ありがた過ぎる。それと昨春から書きつづけているノンフィクション『あるこうまたあおう』の第3話を脱稿した。いっさい妥協せずに書いたので、入稿日にはノンストップで12時間机の前にいることになった。仕上がりに満足している。来月上旬、活字を示せると思う。それから朝日新聞の文芸時評。じつは任期は今年度末までなので、残すはあと2回となった。このような多忙な状況のなか、しかしながら私は読んで、読んで、読んでいる。そして人とも会っている。たまに徹夜しても、それでも元気に人と会っている。そして、やがて、本当にすてきな創造物がいっぱい、多数の出会いや他者のクリエイティビティとのそれ(遭遇、協同)によって生まれるのだ。実際にいま、水霊はあらわれているのだ。渋谷区の代官山に。