安心完全
2025.02.15 – 2025.02.28 東京・京都・埼玉
先細りの業界はトレンドを追う。元気のいい業界がそれ(トレンドを追う)をやっているのではない。トレンド以外では勝算がないから、そこだけに賭ける、ということをやる。するとどうなるのか、というと、どんな商品でも「型に嵌める」ようになる。これは自分のいる業界だと、「どんな作品でも『型に嵌め』……」とも言い換えられるところがあるから危険だ。もしも、自分の書いた小説や戯曲が、そんなふうな鋳型に押し込められようとしているのならば私は全力で抗わなければならない。
しかし、時には気づかないで、そうした潮流に乗ってしまう、というか、乗せられてしまうこともある。新型コロナウイルスのパンデミック以降、いいや、2017年の渡米以降の日々を近頃はけっこう精査するようにふり返っているのだが、たとえば私のその渡米はドナルド・トランプが「1期め」のアメリカ大統領に就任する10日前になされた。どうもこのあたりから雲行きが怪しい。私は、本人としてはけっこう闘っているつもりだったが、以前のような〈唯一無二の個性〉が不必要なまでに全面に現われた作品を、たとえば本を、出せていない時もあった、とこれは言い切れる。そしてそうした日々は、結局のところ去年まで続いていたのだ。
だが、みな、それが最善の術なのだと思って「型に嵌めて」いる。私は自分といっしょに作業する人たちのことがしばしば愛おしいなと感じてしまう傾向にあるから、それが「型に嵌めて」いるのか「作品に合わせた型を準備してくれている」のか見えなくなってしまうことがある。この現象を私は、少し前に「自分のまわりには靄があった」と知人に表現した。モヤだ。たぶん、文学であれ美術であれ、売りものにされているのは個性のはずなのに、その個性が「型に嵌められて」から売られている。要するに〈トレンドのバリエーション〉として。なにしろそこに押し込めれば、安心なのだ。安全なのだ。
そして、いま思い出したから、はっきり綴る。俺がいちばん嫌いな4字熟語は「安心安全」だ。この数年来、誰もが「安心安全」と口にすればどこからも攻撃されない、と思って、責任放棄のために「安心安全」と唱えている。つまり、口にしている彼ら彼女らは、ほんと安心で安全なのだろう。
けっこうなことですね。
いっぽう、俺が、いいや私が、だからこちら側が提供したいのは、安心であるのならば徹底して保証しきれるだけの〈完全〉な安全であって、強引に4文字にまとめるならば安心完全だ。これだけは言っておきたい。そして繰り返しておきたい。「個性はどこへ行った?」と。私は、私自身の個性を、これ以上は削がせないし、と同時にあなたの個性をどこまでもどこまでも、たぶん銀河系宇宙の果てまでも、信用する。そこからしか新しい世界は始まらない。
髙橋恭司さんとの「水霊」展の開催が始まって、いまも続いている。フロアの1階のインスタレーション(古川日出男の個人名義の展示作品)のことを少しだけ解説したい。あれは寸法として大きな作品だと思うが、どうしてそれを私は作れたか。〈長篇小説〉を執筆するのと同じスタンスで制作に臨んでいるからである。そこには時間が流れている・空間が広がっている・しかし1冊の本の内側に封じ込められるように、インスタレーションの(境界線なき)内側に封じられている。しかもそこには、私が自分の手で書いた400行の詩の本が、焼かれ、しかし燃え残り、だが「読めない」形で封印されてもいる。
これは何か?
これは詩だし、長篇小説だし、美術だ。
そういうものを私は、あなたたちに安心完全をあたえるために、多くのスタッフの純粋なクリエイティビティの厚みに支えられながら、LOKO GALLERY で創った。3月8日の「水霊」展クロージングまで、そのインスタレーションはこの地上にあり、それからは消える。