カオスのただなかで書く
2025.03.29 – 2025.04.11 東京・福島・千葉・埼玉
静かな時間がスタートしている。仕事部屋には原稿用紙が準備されている。そしてインク類と筆記具もセットされているのだが、今回は万年筆が主役になる。万年筆を「小説を書く」ためのメインのツールにするのは久しぶりだ。新しい万年筆を買うのだろうなと漠然とイメージしていたのだけれど、実際には『平家物語』の現代語訳を行なう際に最後に使った1本を、新しい長篇小説の起筆のために用いている。そう判断したのは4月3日のことで、この日には文芸誌「MONKEY」に連載している『百の耳の都市』の最新回のための取材を敢行していた。ある場所で、自分は万年筆を購入するのだろうな、と予期していたのだけれども、買わなかった。意外だった。
『平家物語』は3本の万年筆で書いた。1本めから2本めまでの万年筆は駄目になってしまった、ということだ。あれだけ長尺の作品を手書きで作業していると、まあ、そうなる。しかし3本めのそれは生きのびていて、その〈平家もやっていた〉万年筆で最新の長篇小説をまっさらな状態から書き起こす、というのはどういう意味を持っているのだろう? 私はぜんぜんわかっていない。たぶん『平家物語』の魂は引き継がれるのだろう。そして、今日(2025/04/11)、その新しい作品を書き出して、それは存外スムーズだった。私が握っている筆記具は、私の書こうとする〈意思〉を裏切らなかった。ありがたい。
じつは万年筆だけで書いているのではない。ルビ(振り仮名)はガラスペンで書き添えている。本篇と、そのルビのために用いるインクの種類も変えている。こういうのは読者の目にはいっさい触れないので、どこかで「誰のためにやっているのかな」と考える折もあるけれども、それに関しては答えは出ている。私は「作品のためにやっている」のだ。その小説の〈宇宙〉を此岸にいながらも「深めている」と理解するために。自覚するために。そういう作業に時間もそれからお金も費やせる贅沢が、たぶん私は愛おしい。こんなことにしか贅沢にならない自分なのだけれど。
ほんとは朝日新聞の「文芸時評」が完結したら、即、創作ざんまいの日々に帰るはずだった。ただ、そういうわけにはいかなかった。いちばん大きな要因(仕事)は群像新人賞の選考で、これは選考委員になって5年めだ。また真剣にやった。だから「読む」ための時間をたっぷり使った。もともと小説を書くためには資料をふた桁み桁と読まなければならないから、ある作品の起筆のために不可欠なのは「読む」ための時間の確保で、そういうのは簡単には叶わない。しかも取材というのもある。さっき『百の耳の都市』の最新話のために取材した、と記述したけれども、私は新しい長篇小説のために4月4日から4月7日にかけて合計3日、取材のために費やしている。いつまで経っても時間が足りないなあ、とは思う。でも、ある現場に自分が立つ時、それは〈作品と自分が接する時空〉が生じることに間々なる。そういう感動のことはうまく言語化できないのだが、たぶん、自分はそれがあるから「創ることを純粋に喜べている」のだ。そして、これはこのところ毎度のことでもあるのだけれども、私の取材はさまざまな人びとの愛情に支えられている。誰かが手伝ってくれる。誰かが無償で私のために時間を割いてくれている。そのことへの感謝の心を私は忘れたくない。というか、ぜんぜん忘れない。私はいつも「この人たちは、なんで私のために、ここにいてくれるのだろう」と感激している。それは世界全体に対する〈心からの謝意〉というのに近い。
前回のこの「現在地」でアメリカ大統領のドナルド・トランプがやっているのは地上にカオスを産出することだ、と書いたら、ほんとに壮絶なカオスがいま生まれている。トランプという人間はこれをわざとやっていて、それに振りまわされるというのは「トランプの支配する宇宙に入る」ということなのだけれども、観察しているかぎり、相当数の皆がその宇宙に入ってしまっている。出ればいいのにな、と私は思う。出るために、私は新作を書き出している。私は、この新作のことは以前から〈郡山小説〉みたいに言及していたけれども、このラベルから想像される作品と私が本日からインクで・手書きの文字で・紙の上に産み落としはじめた作品とはだいぶ異なる(はずだろうと信じる)。だからもう、ここからは〈郡山小説〉とは言わない。
私が何をやろうとしているのか。
まず、今夏にその何割かを、もしかしたら半分を、見せる。
そうするために、私は静かに、あと何十日かを過ごす。
でもカオスを観察することはやめない。それと季節を観察することもやめない。花々は咲いている。