小説創作論(日本小説の創作)

小説創作論(日本小説の創作)

2025.04.12 – 2025.04.25 東京・埼玉

新作長篇の執筆に沈み込んでいるので、あまり他のことが考えられない。この「現在地」にも、あえて書くような事柄がないとも言える。が、本当にそうか? 私は日々苦しみながら呻きながら〈小説のこと〉ばかりを考えている。つまり思考はどんどん深まっているのだから、それについて書こう。

きちんとした形を具えた小説を日本語で、かつ日本文化の延長線上に作り上げるのは難しい。これは近現代文学のみならず古典にも触れつづけてきた私の確信である。日本文化は、そうした「最後まで構成されている巨大な物体」を産むのに、あまり熱心ではないのだ。ただし同一平面上では異様なまでに分岐させる。いわゆるガラパゴス化というやつだ。その是非を私は論じない。

だが私は巨大な、構成された、物体としての書物を産み落としたいと思っているし、試みつづけてきた。その結果、独自にたどりついている〈論〉なり〈思想〉なりがある。

それを記す。

長篇小説を仕上げるには、何が必要か? 5種類あるので順番に挙げる。第1に、構造。第2に、主題。第3に、装置。第4に、物語。第5に、文体だ。こうやって順位を記すと「それでは文体は最も軽んじられるのか?」と誤解もされる。しかし、ちょっと引いて眺めよう。

読者はどこから小説という作品に触れるのか? 書かれている文字から、である。すると文体こそは、読者との最初の接面、すなわち〈最前線〉であるのだ、となる。

ただし文体を持たない小説というは、率直に言って、存在する。
もっと率直に語ってしまえば、かなり存在している。

すると読者との(その意味での)最初の接面は、何か? 物語である。この物語というやつが〈最前線〉に来るから、ストーリーが最重要視される。また、私の言う物語には「舞台設定」や「キャラクタ−」も包含されている。ユニークな設定があれば勝ち、だの、尖ったキャラの創造が勝負どころ、だの、そういったラインはここから生じている。

ただし、繰り返す。それは「文体を持たない小説」の場合である。そして、私はここで最初から、日本の文化の内側に存在する小説、との限定を施して、いま語っている。

私が5項目挙げたうちの、装置、主題、構造だが、この順番で「それを捕捉できない読者には、その存在がわからない」要素となる。思い返してほしい。学校教育では「では、主題は何ですか?」などと問われなかったか? こうした質問にされてしまうほど、主題は遠い。読者の接面とは言いがたいところに在るのだ。奥まっているし、だから遠いのだ。

いわんや構造をや。それは長篇小説の全体を読み終えて、これを〈把握〉した読者たちにしか、存在の気配が(その気配すら!)つかめないという代物だ。それゆえ、構造は創り手側からも後回しにされているというか、もしかしたら「構造とは何でしょう?」と首を傾げられている。

それでいいのか、という問題だ。その問題は論じたい。が、それを「論じてもよい創り手(書き手)」となるためにこそ、私はいま、新作の執筆に没頭している。この小説を書きあげられなかったら、私には語る資格はない、と自分に突きつけている。

とはいえ、こうして「創作論」脳となっている私は、場面場面・場所場所でやっぱり語ってしまうのだろう。4月30日に私は吉田雅史さんの『アンビバレント・ヒップホップ』をめぐるイベントに出る。佐々木敦さんとともに出る。これは豊饒な問い(と回答への躙り寄り)に満ちた著作だが、そこでたぶん、私は自分自身が「そうであるべき最初の接面」と見做している、文体、について論じてしまうはずなのだ。そう予感する。