ふたつの発言を解説する
2025.04.26 – 2025.05.09 東京・埼玉
4月30日に開催されたゲンロンカフェでの吉田雅史さん・佐々木敦さんとのイベントは、事前の打ち合わせも台本もないまま、3時間40分登壇した。全体は4時間に及んだと聞いている。吉田さんと佐々木さんが私の「不在」のまま、エンディングまで進んでくれた。もの凄く楽しかった。というのも、もしかしたら現在もアーカイブ配信で見られるのかもしれないが、無料で見られる時間帯(30分間だったか)のモードと、その1時間後、休憩直前の時間帯、休憩後の時間帯とでは展開も熱量もまるで異なった。つまり、そこで何が行なわれていたのかと言えば、やらせも忖度もないことが生じていた。
自分が吉田さんの著書『アンビバレント・ヒップホップ』を読んで、それを踏まえて発言して、そのうちのひとつ、いまも私自身に印象深く感じられている自分の言葉をまず解説する。たしか私は「最前線の、世界を変えるような音楽があるとして、それは音楽の創造者がすばらしいということだけではない。その音楽を発見し、その音楽を聴取し、その音楽を愛するリスナーもまた、世界を変えている。音楽は、そこが(真に)すばらしいのだ」的に言った。また「文学を読むことも映画を観ることも美術を鑑賞することも、おんなじだ」的に発言した。それを受けて吉田さんが「感動した」と応じた。その私の発言に。即座に。真顔で。私は、自分の発言に関しては漠然とした記憶しかないけれども、その吉田さんの表情、放たれた感情の波、正面から見据え返していた目、のことははっきり憶えている。
そこには本当のことがあった。私は、自分がそんなふうに発言するなんて、事前には考えていない。発言自体も用意していない。が、そう言ったのだ。それは私は心の底から、魂の底の底から、信じていることだ。
それと私は4月22日にSNSで、こんなことを言った。「小説を書くことの困難を直視している」と前振りして、それから「端的に言って、小説以外の文章は『頭の中で考えていること』を外に出す作業である。いっぽう、小説の執筆は『頭の中で感じている一つの宇宙まるごと』を外に出そうとする行為である」と発言した。この発言をもっと具体的に解説する。
たとえば今朝だ。今日(2025/05/09)の朝だ。
昨日は、しっかりと本日分の準備を済ませて、床に就いた。スッとは寝られなかった。緊張していた。きちんと準備を整えれば整えるほど、「では俺は、それに見合った内容(原稿)が書けるのか?」と恐怖する。長篇小説を執筆している現在、これを毎日繰り返している。今朝、私は起床後の運動をしている時から腹痛を感じて、運動というのはヨガなのだけれども、必死に腹に意識を向けないようにして、40分間のフロウを続けた。終了して、その腹痛と正面からつきあった。私はどんなイベントの前でも、じつはほとんど緊張しない。なのに、小説を書いている期間は、それが「大事なシーンだ。準備も整えたシーンだ。書かなければならない、書けなければならないシーンだ」と自覚するために腹痛に襲われる。腹を下す。こういう現実が、想像してもらえるだろうか? 私は今朝は、さらに胃に痛みを感じそうにもなっていた。今年の1月から3月でピロリ菌を撃退して、十二指腸潰瘍も完治しているはずだから、ここで再び胃や十二指腸の潰瘍になるのはいやだった。「痛むな、痛むな」と念じた。
朝食の1時間後に、自分がいま執筆している作品の〈世界〉にチューニングを合わせたことがわかった。すると、あらゆる痛みは、その残像も含めて、消失した。
私は、その小説の〈世界〉にチャンネルを開いたのだ。そうとしか言えない。そして、開いてしまえば、なんら不安はない。つまり「頭の中で感じている一つの宇宙まるごと」を取り出すための態勢に入った、入れた、ということだ。
チャンネルを開くためにはそこまでの作業が、なんらかの精神的・魂的なプロセスが要るということだ。そして、その精神的・魂的なプロセスを昇る以外、フィジカルな〈私という存在〉は破壊される。自壊だ。この恐ろしさを、たぶん普通には理解してもらえないという気がする。
だが、それを、毎日やっている。
ほとんど毎日、やっている。
それが私にとっての、小説の執筆、だ。
「なぜ、そんなに苦しめるんです、自分を?」と問われるのだろうが、答えはもう、今回の「現在地」のここに書いてある。私が最前線の、世界を変えるような文学を生み出す(生み出すようなことを「しうる」という可能性に臨む)ことは、私のためではないから。それを発見し、それを読み、それを愛する読者が、読者たちがこの世界を変えるだろうと信じられるから。
こうした日々のなか、私は詩も書きはじめた。これは連載詩となる。今月の終わりから、たぶん雑誌に発表され出す。いずれまた詳細を綴るだろうが、私は今日もいまも明日も何もあきらめていない。自分が何かを変えることは、私以外の誰かを変えられるはずだと、信頼することだ。絶対的にその人たちを信頼することだ。未知の、未来の読者たちを。そのことをあきらめていない。