さらに小説創作論

さらに小説創作論

2025.05.10 – 2025.05.23 東京・群馬・埼玉

来月の早い段階に入稿する新作長篇の原稿が、残り80枚を切った。と同時に締め切りまで2週間を切ってもいるので、気は抜けないが、それ以上に〈気持ち〉が入っている。走り抜こうと思う。で、この執筆の日々がもたらしている、小説に関する〈論〉だ。あるいは〈論〉であると同時に〈思想〉だ。

ことわざに「鹿を逐う(追う)者は山を見ず」というのがある。これのことをずっと考えている。長篇小説を完成させるのに必要なのは、第1に、構造であり、第2に、主題であり、第3に、装置であり、第4に、物語であり、第5に、文体である。そして実際に山に入って獲物である鹿を追跡する猟師になる時、作家は、もちろん鹿を見る。ずっと見つづけようとする。と同時に、鹿の痕跡を地面に、あるいは周囲の樹々に、あるいは音響に感知しようと心がける。かつ、鹿を実際に射るためには、弓矢であれば射る技術、銃器であれば撃つ技術が要る。

鹿がどのように森の内側を走っているか、はストーリーに相当する。鹿が生み出す痕跡を追う行為、これは物語を作る作業にある。だが、どのようにすれば射れるか。撃てるか。あるいは銃器をどのように操作できるかとも言い換えられるが、こうしたスキルこそは文章をどう前進させるかであって、文体だ。

つまりハンティング技術の総体が、5項目ちゅうの最後の項=文体なのだ。その文体から、つぎの項=物語を追いつめる。どんどんとストーリーを追ってゆき、それはつまり、読者には「ストーリーテリング(物語の技術)が立っている」と感じさせる状況を産出する。

だが、そんなふうに地面を這うようにして、樹々の隙間から獲物を追うようにして地面を駆けている間、じつは「山そのものの構造」はまったく捉えられていない。むしろ、鹿に翻弄されて(「追う」という行為に頭がいっぱいで)山のその内側では迷っているのに等しい。

つまり第1に必要である項=構造から切り離されている。その小説はおもしろいかもしれない。しかし「全体がきちんとコントロールされている巨大な構造物」にはならないだろう。なぜならば鹿を追う者は山を見られない、それも原理的に見ることが不可能だからだ。

だから第1に構造が来るのだ。それがなければならない。かつ、物語を転がすのは、物語そのものにしないほうがよい。鹿に翻弄されるだけだ。そのために私は、第3の項=装置だと呈示しているのだ。この装置というものは、物語も転がすし全体の構成そのものもドライブさせる。どちらにも駆動力を発揮するもの、そういうなにごとかが中心に(すなわち「第3」の位置に)なければならないのだ。

では第2の項=主題とは? 小説を書いていると、アイテムというかモチーフというか、そうした類いは繁茂しがちになる。とくに第4の項=物語に集中している時にそれは起きる。エピソードが小さなモチーフ、魅惑のアイテムを勝手に量産するのだ。それを書きながら「魅力的だ。蠱惑だ」と勘違いする作家は多い。この危機を回避するために、主題を順番的には2番めに配置させなければならない。

私はここまではわかっている。
あとは実際に書けるのか、だ。

それと、私は小説ばかりを書いているわけではない。小説以外の表現のフィールドではその領域用の〈論〉または〈思想〉が要るだろう。前回の「現在地」で連載詩を書きはじめたと告げたが、それは『火歌 (hiuta)』とのタイトルとなり、今月末に発売される「現代詩手帖」に第1回が載る。もちろん、そのまま「現代詩手帖」で連載が続行する。時には長篇詩もまじえながら私は書きつづける、だろう。さあ、詩人としての自分の魂も、この1年間弱はずっと見据える。