最新・小説創作論(むしろ文学全体の)

最新・小説創作論(むしろ文学全体の)

2025.05.24 – 2025.06.13 東京・埼玉・京都・大阪

朝日新聞の「文芸時評」を2年間担当して、ふり返ると、自分は採りあげることになった小説、戯曲、評論集、詩集のそれぞれの無意識を相手にしていたのだな、と理解される。そのことを詳述する。

作品にも無意識がある。書き手が「このように意味を込めた」という文章や展開ばかりがそこにあるのではない。だが、私たちがいちばん最初に受ける〈文学教育〉はたぶん義務教育とそれに続いた高等学校での3年間の教育、合計12年ほどの〈文学教育〉であって、そこでは意味が問われる。「ここで、作者は何を言いたかったのでしょう?」というやつだ。

何が言いたいのかわかっている文章だけを綴れる人間は、たぶんネット社会に向いている。あるいは企業のマーケティング担当にも向いている。たとえば電化製品のマニュアルを書くのには最高に向いている。しかしそれほど文学には向いていないのではないか。なぜならば、作品の真の巨大さは、そこに横たわっている〈作品の無意識〉にこそ在るからだ。それが測定されうるか否か。

たまに当たり外れで喜ぶ人もいる。たとえば「この作者はこれが言いたかった。そして、『そのとおり』だとの答え合わせができた。やった!」というやつだ。しかし、私はそこそこの回数、文学賞の選考委員というのをやっているのだけれども、この書き手が誰の影響を受けたとか、性別が(ペンネームでは不明なのだが)男女のどちらであるか推し量り、そのとおりであったとか、それが当てられるのは凄いなと他の人を見て思いはするのだけれども、それは〈作品の無意識〉とはぜんぜん関係ない。

書き手が意識していないものがどれだけ込められているのか。あるいは、書き手が男性なのに〈女性性〉がそこにあるとしたら、それはどれほどの強度か。読んだこともない過去の名作の影響がそこに表われているのだとしたら、その書き手はどれほど「遅れてきたパイオニア」であるのか。

そちらのほうが圧倒的におもしろい、と、私は思っている。

そして小説の、戯曲の、評論の、詩の、それぞれの作品に無意識があるように、その小説の書き手に、戯曲の書き手に、評論の、詩の書き手にも無意識がある。「これはなんのメタファーなのですか?」と読者が問い、それにすらすら答えられることもすてきなことだなとは思う。が、それと同時に、問われた瞬間に答えに詰まる作家のことも、じつは私は信頼するのだ。

その〈作品の無意識〉と〈作家の無意識〉の、双方に光を当てるのが、結局は批評なのではないか。その批評的文章が〈言語化〉した時に初めて、当の作品がハッとしたり、書き手が「そうか、そうだったのか!」と気づいたりするような、そうした批評が、とてもとても現在は必要とされているのではないか。

と、これらは「作品を読む側」として、私はいま書いている。だが、私は同時に書き手そのものなのでもあって、つまり「作品を編む側」として存在して(も)いる。じゃあ、私は「いっぱい無意識があって、いいでしょ〜。俺の作品って〜」などと世間に向かって言うか?

言わない。その作品に無意識が当然のように「孕まれる」と予測するからこそ、執筆に先駆けて、そして執筆のさなかもつねづね、つねに柱にしがみつく。その柱とは、なんだろうか?

私は長篇小説に必要なのは、第1に、構造である、第2に、主題である、第3に、装置である、第4に、物語である、第5に、文体である、と言いつづけている。このうち、第1および第2の構造と主題とはあきらかに柱である。さきに「しがみつける柱」を打ち立ててあるからこそ、内部の空間が生じる。そして、内部の空間中の、日の当たらない部分が無意識となる。

かつて本を読む人間は「行間を読め」と教育された。そういう〈文学教育〉があった。行間とは、どこにも書かれていない文章を指す。つまり、書かれて「読める」文章はみな〈日が当たっている〉のであって、いっぽうで、どこにも書かれていない「読めない」文章(的なるもの)があるということだ。すなわち行間とは〈日が当たっていない〉潜在の文章である。その文章の量がどれだけ膨大であるか、が作品の無意識の量を決定しているし、結論を言えば作品の〈凄み〉を決定している。

この結論を、私流に換言すれば「陰翳礼讃」ともなる。

さて、気がつけばこのウェブ上の連載「現在地」もこれが150回めだ。誰かが、というか誰かは読んでいることを信じて、ここまで書きつづけてきた。そして、これからも書きつづける。いつまでも、とは言わないが、私は何かを「古川から受け取りたい」と思ってくれるあらゆる人たちのために、このような創作論もここに残す。かつ、私自身、そうした創作論を実践しつづける。少し前から「書いている。書いている」と宣言しつづけた新作小説は、300枚予定の原稿が306枚となって、仕上がり、入稿された。来月の上旬には雑誌上に載る。そして、早7月1日からは私はさらに300枚の執筆に入る。ここには連続した世界が、というか、小説の宇宙がある。私はどんどんやる。

それと、詩作。「現代詩手帖」で先月末から始まった詩の連載「火歌 hiuta」は、個人的に泣きたいほど感動してしまったのだが「現代詩手帖」の巻頭に載った。その第1回はそのように始まった。すでに第2回も入稿した。初回よりもさらなる行数を書いている。それから美術制作に関する脳も、これは通奏低音のように、だけれども、維持しつづけている。私が考えていることは、小説が文学に、文学が芸術にと、より〈大きなこと〉に連なること、つつまれることだ。どうしてそんなことがしたいのか?

そのほうが読者が、より大きな力に、包容/抱擁されると私にはシンプルに直観できているからだ。私は自分の直観を信じられないほど愚かではない。