夏迷宮
2025.06.14 – 2025.06.27 東京・静岡・埼玉
小学校高学年の頃から眼鏡を着用しはじめた私は、50代の後半になって白内障の手術をして、水晶体の代わりに両眼に人工のレンズを入れて、基本的には裸眼でも暮らせるようになった。だが最近は、紫外線とブルーライト対策、そして文字を読むために眼鏡を着脱しないでもすむように、けっこう常時、眼鏡を着けるようにしている。だが、ここで意識しなければならないことは「それでも、裸眼で世界は見えているのだ」との事実だった。
どういうことか。
私はある年齢から強度近視になったので、「眼鏡のレンズがある範囲」だけがまともにモノの見える範囲になっていた。ふつう、人間は何かを見ようとする時、まず眼球が動き、それから頭部が、体の全体がこれに従って動くはずである。あるいは体の全体や頭部は動かないけれども、眼球だけは動くはずである。しかし、その眼球を「動かしすぎると、レンズの『外側』に目をやってしまう」という経験が積み重なって、結局、目を動かすよりも頭を動かすことを優先するようになってしまっていた。
視線で見るよりも、(自分の)顔全体で見ようとする、というイメージだ。
裸眼でも世界が見える現在の自分には、その必要がないのだ、と最近ハッとした。これは眼鏡を着用していてもである。その着けている眼鏡のフレームから視線が外れても、たとえば1・2なりの視力で風景は見えている。右眼に至っては現在はなんと遠視なので、眼鏡をかけているよりも見えている。つまり、私は頭を動かさないで、まず視線を動かさなければならない。
もちろん、生まれたばかりの子供というのはそうしているのだ。あるいはコンタクトレンズに慣れたアスリート等もそうだろう。まず、視線がある。それから全身の動きがある。この順番。あるいは、まず〈見ようとする意思〉がある。それから〈見られて認識される世界〉がある。こうした順番でもある。
歩いていても似たようなことが起きているとわかった。私はけっこう重い荷物を背負って、何キロも十何キロも歩くことがある。すると、前進しようとして前傾姿勢になってしまっている。これは駄目だ。軸は垂直に保ちながら、しかし前進するという体勢こそが、たぶん、もっとも意思を運ぶのだ。前のめりになって進んでも、それは〈気持ちも前傾〉しているだけに過ぎない。
こうした肉体に関する気づきは、私の場合、創作に直結している。ただ頭だけを動かして「ものを見ている」と考えてしまうような習慣の罠、本気で進みたいのだからと「前のめりに踏ん張る」ことしかしないボルテージ上昇状態の罠。どちらも駄目だ。
そう、駄目なのだ。
まず、眼球を動かして、ある意味で〈地の果て〉まで見ようとしているのか。執筆する俺は?
背筋をまっすぐ伸ばしながら、それでも高速で前進し切れているのか。表現する俺は?
そこを考えるに至った。
今月の頭に脱稿して、編集部に入稿した306枚の小説が、そのゲラ(校正刷り)も戻されて、あとは来月上旬に雑誌に載るだけ、の状態に至った。タイトルは『夏迷宮』という。書いている間、ずっと「自分は気づけているのか、気づけているのか?」と自問しつづけた作品だった。自分自身に対して、その小説に対して、かつ、世界に対して。この世界というのは、激動する〈現代〉を指していた。
ひとまず、いまは「やれた」と言い切れる。いちおう断じ切れる。が、ここからも闘いは続行する。全部の闘いが完了するのは、(これまた「ひとまず」だろうが)9月の頭になる。
いま、悔いのない夏を駆け抜けようと思っている。念じている。