
小説創作論、その部分的フォーカス
2025.07.12 – 2025.07.25 東京
「群像」8月号に『夏迷宮』300枚超が一挙掲載されて、その反響はちょっと自分の予想を超えた。熱い。しかも的を射るように、伝わっている、刺さっている。大事なのは「刺さるべきところに、刺さる」ということで、そういう層に対してそれが「できている」という手応えがある。直接に感想を聞く機会もあるし、人づてに耳に入れることもある。あと、私はSNSは自分ではアカウントを持っていないので、レスポンスがあってもじかには返せていないのだけれど、ああこの方がこんなことを、というのは伝わっていて、感動している。
私は、長篇小説に必要なのは第1に構造で、第2に主題で、第3に装置で、第4に物語で、第5に文体なのだ、という自説を、この『夏迷宮』では実践した。そして、たぶん構造や物語というものと勘違いされやすいのがプロットだろうな、と感じる。プロットを書いたら、そこには構造がある、物語があるという(私の見地からしたら)誤解だ。
構造というのは、いわば空間的な配置である。その長篇小説のオープニングからエンディングまでが、どのような空間を成り立たせているのか。その見取り図となる。主題というのは、普通に捉えてもらってかまわない。つまりメッセージだろうし、メッセージを内蔵した〈モチーフ〉群でもある。ということは、装置は決して〈モチーフ〉ではない。それでは装置は何をしているのか? 長篇作品に時間的な配置を与えているのだ。ここに物語のようなものを流し込むと、それが「動く」ということだ。それは動力という意味でのダイナミック dynamic だし、力学という意味でのダイナミックス dynamics だ。
仮にプロットのようなものを事前に用意したとする。詳細に準備したとする。しかし、そこでは空間的位置と時間的配置が渾然一体となっている。すでに物語が流れ出し、広がり出してしまっていて、腑分けされない。大切なのは「ゴチョッとなってしまう」前の要素群を、きちんと作者が抱えることだ。何かをA地点に置いて、それからB地点に付置したら、その動きを「あっ、装置だ」とか「ダイナミックスだ」と勘違いする。しかし、それは空間に配しただけのことで、時間的なことはしていない。つまり〈歴史〉は動かせない。そういうことの必要のない小説も数多あるのだろうが(現代小説というのは得てしてそういうものかもしれない)、しかし私のような作家は〈歴史性〉なり〈時間性〉なりを不可欠とする。その際に、作り手側が誤解してしまってはお終いなのだ、ということ。
すると構造は、どのように捕獲しうるか、プロットとは別に準備しうるか、だけれども、これは「目次を用意すること」だと思う。
目次によって、作品宇宙のその四隅に東西南北の柱を打ち立てる。あるいは四方八方、上下左右でもよい。そこに空間が生じたら、あとは時間を流すだけである。そのための装置は、作家ごと作品ごとに発見される。それはもしかしたら、物語内から抽出可能な〈設定〉のバリエーションかもしれない。私の『夏迷宮』でいえば、それはテーマパーク内のひとつのアトラクションだった、ということだ。
そして、私は2023年4月からの朝日新聞紙上での「文芸時評」の作業で、相当に相当数の長篇小説を読んだ、国内外の長篇小説を読んだ、けれども「脱稿以前に目次(のようなもの)がきちんと用意されている作品・仕込まれている作品は、少ない」と痛感した。そういうことを、特に日本人は、していない。ここにはほんとに問題がある。かつ、ここには日本文化の本質もあるので、たぶん〈ここ〉を射ることは日本のカルチャーそのものを変質させることなのだ。
ということは、それは文化革新なのであって、ルネサンスだ。
その事実にみなが気づけるか。
気づいて、ともに動けるか。
さて私は、さらに新作小説を書きつづけている。

