
現状について、世界について
2026.03.28 – 2026.04.10 東京・福島・埼玉
その後の私の体調だけれど、じつは快復には時間を要した。が、外に出て仕事をするような機会が続いて、その「人前にいるあいだ」はだいたい健康そうな感じを維持できた。この発言をパラフレーズすると、私は無理をしていたのだ、となる。それは快復の遅れにつながった。が、体力じたいはもう戻ったに等しいステージへは来た。
それにしても直接的な引き金の中東情勢だ。この水曜(2026/04/08)に最悪のところに来て、最悪のその地平からは離脱して、しかしながら現在も「言った」「言っていない」論争があって、論争があるだけならばよい、それは直接的に被害を生んでいる。ここで個別的な事象に触れるのは私の基本的な態度ではない。私は結局のところ相当に政治的な人間だと思うけれども、それは国内的に言われるところの〈政治性〉とはだいぶ異なっている。だから「いま、目の前にある事象のいちいち」には言及せずに、私が真に考えていることを綴る。
目下問われているのは、「知性のない人間にどのように対峙するか?」だ。
答えは「強さをもって、しかない」だと感ずる。
そして、その強さとは武力的なるものとはまったく別物だ。
かつ問われているのは、あるいは問うべきなのは「(その)人間の持っている誠実さ」である。
不誠実な人間は、徹底批判してよい。
戦争について。
私の見るところ「善と悪の対決する戦争」などない。
なぜならば、どちらの勢力も善を主張するから。
その前提を踏まえて、現実について。
戦争の現実に関しては、2種類しかない。
第1。不誠実と誠実が対決している。
第2。不誠実と不誠実が対決している。
こうした現実を踏まえて、採るべき態度について。これは私見である。
それが、1、であるのならば、誠実の側に立つ。
もしも、2、であるのならば、単に政治的に有利になるように立ち回ればよい。
あとは個々が判断すればよい。個別の具体的な問題群に関しても。私は、「このことに関しては自分で判断した」という人間だけを信ずる。応援する。誰かがこう判断しているから、それを支持する、という人間は、私にはあんまり関係ない者(または勢力)だ。
中東情勢に関しては以上。その情勢が私の体調を悪化させた主因である、との解説は前回のこの「現在地」で行なった。ただし主因があれば従因もある。それらは私生活に関係するから詳述はよす。ただ、予定外に帰省する必要があった、これからもあるのかもしれない、程度は記す。故郷に帰って、これは今日(04/10)から数日前のことだったのだけれども、ひとりで墓参した。その墓には祖母と母と兄の骨が納められている。そして墓域の地中にはもっと、数多い祖先の肉体(の名残その他)があるはずだけれども、そちらについては私は反応できない。自分が生まれる前に死んでしまった人たち、のことを自分は思い出せていない、としか言い換えられない。私はたぶん、父方の祖母とそして母とそして兄とは、自分が生きて触れて、その記憶をどうにか「こぼしたくない」と感じているのだ。この感覚はなんなのか。
墓から向こうの林が見えた。トビが飛んでいた。ずっと観察した。やがて墓域から出て、いったん古川家の「本家の墓域」というのにも参ったのだけれど、その後は、トビが旋回している林まで歩いていった。
本家ではない古川家の墓のこと。そこをずっと観察していて、昨秋、父親は5人きょうだいだった、と判明した。4人きょうだいだったと思っていた。その5人めのことを、誰も語らなかった。誰も語らなかった人が、その墓域の地中にいる。私は何も思い出せない。なぜ「語られなかった」人なのかもわからない。私は、ない記憶は、こぼしたり落としたりすることもできない。
いま、この地上に残っている古川家の40年以上前の歴史を、ビビッドに抱えているのは、たぶん私と私の6歳上の姉だけだ。それがどういうことなのか。なぜ私たちは消えるのか、地上から? 私は、抱えられるだけ抱えよう、と感じている。そして、抱える前に消されること、たとえば戦争が〈消す力〉を持っていることを、圧倒的に拒む。
そして私の、携えなければならない〈強さ〉とは、文学的な・文化的な・芸術的なそれだ。
絶対に対峙してやる。無‐知性に。今月23日、新刊『夏迷宮』を出す。それはむしろ、おのずと出る。この地上に。

