時代のオブセッション

時代のオブセッション

2026.04.11 – 2026.04.24 東京・埼玉・岩手

きのう人生を分裂させた。

自分はふたたびデビューしたのだと感じている。作家として。それがきのう(2026/04/23)だ。これは小説家としてデビューしたとも言い直せる。だが、今後に書かれる詩は『夏迷宮』以降の詩作ということになるだろうし、戯曲もそうだし、論考に関しても同じだ。論考というものは具体的に準備して、数十時間後に書き出せる状態にもってきている。それは〈創作論〉となる。が、このことの詳述はいまはしない。問題は、きのう私は自分自身の人生を分岐に入らせた、という点にある。それのみに。

デビューした頃の自分はどんなだったか? 何も持っていなかった。誰にも期待されていなかった。いや、実際には妻がいたし2匹の猫がいたし、それから持ち込みの原稿であるにもかかわらず、何かを期して「書け。続きを書け」と言ってくれた編集者がいた。それはつまり期待だ。つまり私はひとりからは期待されていた(最初の担当編集者・幻冬舎の志儀保博さんに心から感謝する)。賃貸の住宅に暮らしていて、仕事はつねに、「つぎの書き下ろしも、許されるだろうか?」という以上のものはなかった。

それで?

つまりじゅうぶんだった。それだけで闘えていた。「どこまでも行ける」と楽観視していた。自分自身のポテンシャルも素直に信じられていた。家族(妻と猫たち)からの愛情を疑うことは1秒もなかった。じゅうぶんだ。思い返すと、それ以上の幸福はない。

だから?

いまはもう猫たちはいないけれども、また前に進みたい。ゆえに、デビューし直す。いろいろと捨てた。人生はふたつめのレールに入った、ということだ。転轍機(ポイント)が作動するのを体感した。私もやはり、どこかで「捨てること」が恐い。だが、見回せば、みなが執着している。かつて〈よかった〉ものに。あるいは、かつて〈よかった〉はずの自分たちに。しかし元には戻らない。時代が暴走している。

だから捨てる。そして、次のフレーズだけを唱えて、繰り返す。
忍耐せよ。忍耐せよ。

楽観的でありつづけよ。自分たちを肯定しつづけよ。「この小説には何が書いてあるか、わからない」? そういうコメントは以前の作家デビュー作『13』でも頂戴した。その物語の筋がわからない、と言われた。物語? 筋? 筋があるものが物語なのに、物語と断定されながら筋がない? 見当たらない? しかし腐らなかった。そこだ。

続ければいいのだ。忍耐せよ、忍耐せよ。私が表現している〈世界〉があり、同時に、時代が求めている小説的な・文学的な、あるいは娯楽的な〈世界〉がある。それらが交叉しない瞬間には、やはり届かない。だが現代はどうだろうか? 私はこう感じている、「時代のオブセッションと自分のオブセッションが合致した」と。

そこだ。

私がきのう発表した『夏迷宮』という小説は、私だけが抱えた問いの結実(たぶん物語という言葉にパラフレーズされるだろう)ではない。そこにはあなた自身の問いもあって、つまり、あなた自身の物語でもある。『夏迷宮』は問いかけつづけている。なぜならば、私自身が問いかけつづけて、その〈世界〉に入り、そこを通過したからだ。その〈世界〉から出てきたからだ。

私は現代を書いたし、そこで〈世界〉を書いたのだから、この、〈世界〉を書いた文学は世界文学だ。

ちょっと前に「アイディアは降ってくるんですか?」みたいに問われる経験があって、これに対しては正確に答えを返すことができた。ここでは違うことを記す。たとえばインスピレーションというものがあって、それは「まるで本当に聞こえているみたいだから、『(その降臨は)幻聴みたいだ』とパラフレーズできる」とも説ける。だが、インスピレーションが幻聴だと断じられた瞬間に、それは病だと診断される。いっぽうで、そのインスピレーションに絶対的なものがあるのだ、それらは人間の〈世界〉の上部から来るのだ、と言い放てば、いっさいは宗教的な経験となって、たかだか〈人間の病〉からは離れて預言ともなる。超越的な存在の言葉を預かって、かつ、文化的な指針ともな(りう)る。

インスピレーションは横からは聞こえてこない。上から、あるいは下から、(私やあなたたちに)捕獲されるのだと言い切る時に、少しだけ真実に近づいている。

病むな。捨てろ。耐えて忍んで、耐えて忍んで、跳べ。

あなたへの問いは、『夏迷宮』にきちんと込めた。