私はなぜ『夏迷宮』を書いたのか

私はなぜ『夏迷宮』を書いたのか

2026.04.25 – 2026.05.08 東京・埼玉

もしも第3次世界大戦が勃発するとしたら、と考える時、人はそれを「人間の歴史における最終戦争だ」とイメージする。私もけっこう同様に想像している。こういう際に私たちはほんとのところ何をイメージしているのか? たぶん「人類の最後の戦争はひとつだ」と考えているのだ。たった1回。ところで、人類史をさかのぼってみよう。戦争の始まりとは、どこにあるのだろう?

どこにでもあった、と私は考える。

そして、世界の広さは?

かなり狭かった、と私は考える。

たとえば日本列島のその歴史を1500年さかのぼっても、その〈全世界〉は中国大陸の王朝を中心とした空間的な拡がりに限定されている。ここでA国とB国とC国の戦争があった、とフォーカスを絞る時、その3国の戦争は容易に「全世界規模」と感知される。実例を挙げるならば、朝鮮半島で、ある国々が戦ったような局面だ。その際に中国の王朝(とは私たちが考える現代の〈中国〉にかなり等しい)と日本がそれぞれ別の半島の国家を応援する場合、そこでは完全に「世界大戦」が勃発している。

これを第何次の世界大戦とカウントしたらよいのか?
第0次世界大戦である。第ゼロの順番の。

そして、さらに数百年さかのぼり、数千年さかのぼって、どこかで「隣国同士」が戦争を行なう時、その2国の可視化されうる領土がほとんど「この地域の全世界」的に認識されているのだとしたら、それもまた第0次世界大戦である。つまり、

人類の最初の戦争は無数にあって、それらが全部、人類の〈世界大戦〉である。

このように想定する際に、初めて見える「現代の見取り図」があるのだと私は直覚した。それが私が『夏迷宮』を書いた理由だ。理由の、たったひとつだ。大切なのは、惑星規模の戦争だけが〈世界大戦〉なのではないという視座。そもそも近代以前、この地球は〈球状〉ではなかった。平面だったのだ。世界はフラットだとあちらこちらで認識されていた。天動説だったし地球が平らだった時代に、そんなふうに第0次世界大戦は無数に勃発していて、みなが「自分たち(の共同体)が正義だ」と謳っていた。そして「自分たち」以外を暴力をふるう対象にしていた、と想像することが叶うならば、それだけで私たちは1歩も2歩も〈戦争ではない世界〉に前進し出す。

そうした世界をセカイと名づけてみたいとの衝動が私にはあって、それもまた『夏迷宮』を書いた理由だ。たかだか世界という言葉から漢字を剥いだだけで、こんなふうに見え方が変わる。その、日本語の可能性。日本発の文学の可能性。

私は、それはやりたかった。そんな日本列島発の文学は、世界文学にもなれるしセカイ文学にもなれるだろう?

それから遊園地の記憶が、私には「ある」のと同時に「ない」。これも『夏迷宮』を書いた理由のひとつだ。私が18歳まで暮らした福島県郡山市のその町の、隣接する町に、私が18歳で郷里を出た後に、遊園地の建設が始まった。すると、昭和という時代が終わる前に、ほぼ直前に、私が帰省すると実家のある土地から観覧車が遠望できるようになった。その遊園地の記憶は私には「ない」のに、つねに帰るたびに驚いてしまう景観が出現して、それは「ある」ことを何度も上塗りした。私の記憶に。

そのアミューズメントの施設の登場の、あまりにも現実離れした感触。
なのにリアリティしか内包されていない事態の、何度も何度も反復される驚愕(私自身への)。
ジェットコースターだってある。しかし、そんなものは、その田園地帯にはなかったのだ。

だとしたら。
平安京だって出現する。
私はそうも思った。私は自分の故郷に、平安京を出現させられるのだと無謀にも直覚して、だから『夏迷宮』を書いたのだ、と、これも本当の理由のひとつだ。

先月下旬に刊行された『夏迷宮』では、刊行から約ひと月後になるけれども、刊行記念イベントが用意されている。PASSAGE bis BOOKS & CAFE での私ひとりのイベントと、代官山蔦屋書店での大澤聡さんとのイベントである。前者では、ひとりだからこそ語れること・やれることに集中する。後者では、対話の相手がそこにいてくれるからこそ語れること・思考を深められることに集中する。たぶん、まるっきり感触の違うものになるのだろうと想い描いている。そして、本日あらためて気づかされたのだが、どちらもオンライン視聴が可能(でありアーカイブ視聴もできる)から、どこからでも参加できるのだった。ということを、福島の新聞社の記者さんの言葉で、さっき気づかされた。

たとえば福島県郡山市からも、それに立ち会える。
それはすばらしい。
私が思うに、それ以上にすばらしいのは、本物の郡山とは無縁な場所からも、この『夏迷宮』という小説のための郡山を作り上げる〈場〉に、立ち会えるということ、臨めるということだ。それは郡山市であると同時にこの世界の/セカイのコオリヤマ・シティになるだろう。図書館の書籍には昔、閲覧カードみたいなのが裏側の表紙(のさらに内側)に挟まれていたけれども、同じように、オルタナティブな住民カードをさし挟める〈場〉が、それらなのだと私はイメージしている。(魂のふるさと納税みたいなものだ。これが世界文学共和国の、極めてラディカルな住民票だ)