医師と患者

医師と患者

2026.06.13 – 2026.06.26 東京・埼玉

今月は〈人間ドック〉の月だった。2週に分けて、2度、病院へ足を運んだ。1度めは前日の夜から食事などの制限があり、当日は絶食、2度めは前日は朝からずっと検査食で、当日は絶食。その結果はというと、詳細なレポートはまだ届いていないが、その場でわかる検査類の結果は極めて良好だった。担当された先生がまったく心配していない、というのが口ぶりから、また表情からも気配からも明らかで、やや呆然とした。そうかあ、自分は健康かあ、と。

それで、2度に分けた理由は内視鏡で体内を2度観察されたからなのだけれども(上下からだ)、それぞれの医師のアティテュードに驚いた。まずは、こちらの顔も見ず、挨拶もせず、終わってからふり返りもしない医師がいた。それから、きちんと言葉を交わしつづけて、質問にも都度都度答えてくれて、心から「ありがとうございました」と言えた医師がいた。もちろん、内視鏡検査を担当している医師というのは、ディスプレイ上の〈画像を診断する〉ということをしている。だから患者を見ないでも、それはそれで理屈は通る。だが。だがしかし。だとしたら患者(と、人間ドックを受ける人間も含めて総称しておく)はどこにいるのだろう?

いないことにされているなあ、と思ったのだ。

ディスプレイにその画像がリアルタイムで映るとして、その、映っている画像を提供している人間がいる。いま、ここにいる。いま、そこにいる。それが「関係ない」というのが驚きだった。じつは私がこの時考えたのは、「医師と患者の関係と、作者と読者の関係はパラレルになるか?」だった。たとえばディスプレイに映る画像を提供するだけの、あまり生身を感じさせない存在(としての患者)、というのは、その本を購入して読んでくれている、対価を払ってくれたり反響をオンラインのメディアに上げてくれたりしている人たち、に通じるとも言えてしまう。対価であれ反響であれ、それらは数字に換えることができる。それは〈画像を診断〉するように「診る」ことのできる数字だ。

そこで私は立ち止まる。
読者は数字なんだろうか?
書店でもいいしオンラインでもいいが、そこで「買う」時に、読者は実在している。生身がある。「読む」時に、生身がある(脳を使っているし、本を保持しようと腕を使っている。腕いがいの筋力も)。それどころか、本には本が買われるタイミングがあるけれども、読むタイミングというのはしばしば別に存在していて、「いまはまだ読んでいない。しかし、自分の生活空間にその本を『置く』ということをしている」読者も、この人はまだその本を読んでいないから厳密には読者でないはずなのに、ちゃんと読者として存在する。その「置く」タイプの読者にも生身がある。

いるんだよなあ、と私は思ったのだ。
ちゃんと読者はいる。太字にしたっていいのだけれども読者は実在している

ずいぶん前に商業演劇に関わった際、本番中の会場に何度も足を運んで、当日券を得るために並んでくれている人たちの列を見た。プロデューサーの方が、(その公演の当日券はたしか1万円とかだったので)「ああやって並んでいる人たちを目にすると、言い方は悪いのですが、一人ひとりのお顔が1万円札に見えるんです」と言った。私はその言葉を肯定的に捉えた。バーチャルな1万円ではないのだ。そこに行列している、その生身、そういうのは本物の価値だ、と。

その認識から始まることがあると思う。
こういう視点を意識すれば、たぶん「高額な商品」というフレーズの意味は変わる。
意味というか、意義というか。そういうのが。

今月はそんなふうに〈人間ドック〉を複数回体験したにも等しい月だったけれども、取材も複数回受けた。新刊小説の『夏迷宮』に関してのみならず、詩作についても、自分以外の表現者(たちの表現)についても。取材を受けるたびに思うのは、ああ、自分が晒しているのは生身だし、それに、対峙している相手も時には緊張も示して、こちらに生身を晒しているんだな、ということ。そして、そういうのは無駄なストレスか?

違うんだよね。
そういうのは、患者たちが医師たちのこと(立場とか)をちゃんと想像できたり、医師たちがどこかで「自分も患者だなあ」とその視点を転換してくれるような、稀有なことなんだよ。

私は思う。
作品を(真ん中に)挟んで、作者と読者というのは、いっしょなんだよな、と。
そういうことを、しばしば思っている。

梅雨だ。台風も来た。私は2週間前に購入したランニング・シューズをまだ下ろせないでいる。そのシューズを履いて何をするのか? もちろん歩行するのだ。それも目的を持って、たぶん強靱な意志とともに歩行を開始するのだ。私は2020年の夏に「復興五輪なき被災地」を歩き通そうと決めて、実際に歩いた。それは『ゼロエフ』というノンフィクションにもなった。その後も『あるこうまたあおう』のシリーズで歩きつづけた。ここにも徹底的な意志があった。そして、いまから15日後、自分の60歳の誕生日からまた歩き出す。新しいテーマとともに。今度はもっと視野を広げるだろう。そして誰も想像していない〈着地〉をめざすだろう。

その頃には、雨よ、あがれ、と私は願っている。
私は自分を観察している。たとえば〈人間ドック〉を通しても。
私は、つぎの8文字が示している単純な事実だけを、凝視している。

ここに肉体がある