
馬とともにいる
2026.07.25 – 2026.08.14 東京・埼玉・和歌山・福島
この3週間はあまりにも多くの出来事があったので時間に沿って(そのうちの少々を)記すが、まず前回の「現在地」をアップした直後に、私はある人から還暦おめでとうございますのメッセージとともに短歌を贈られた。そういうメールをいただいた。その短歌を読んでいたら、自分の人生は道半ばだし日が真っ赤に燃え出でているのだ、と、その、いただいた短歌そのままの自己認識が生まれて感激した。ありがとうございます。
私はふたつの創作の作業にかなり没入して、そのひとつは、自分には創作(される原稿)であるのだけれども他者に創作に関してを教授するというか真剣に伝えている『ツァラの創作論』の連載第2回だった。『ツァラの創作論』は第1回は序論で、ここから本論に入る、その本論の最初の1篇がどうなるか、は全体を決定すると感じていたのでハードルは高かった。しかし、やれた、やった、私は死んでしまった猫たちと死んでしまっている敬愛する作家たちとに、助けられつつ、全面的に臨んで(とは衝突するように対峙した、ということだ)その連載第2回の原稿を書きあげた。いけたとの手応えはあった。だからこの夏の後半は、私は『ツァラの創作論』に没入してゆく。いっきに書きあげるような態勢に入る。
そういうことができるのは、ずっと連載を続けていた詩篇『火歌 hiuta』が完結したからでもある。『ツァラの創作論』第2回とほぼ平行して準備、作業して、ほぼ時間をおかずに『火歌 hiuta』の最終篇は執筆された。私は現代の叙事詩を書いているつもりだった。それがこの連載詩の核心部ではあった。だが、叙事詩はこの現代において、いかに〈着地〉しうるのか? この課題はあまりにハードルが高い。しかし、目をそらさなかった。私は、書いた、たぶん先行する14篇とは異なるスタイル、異なる感触の詩篇を書いて、しかし先行する14篇をその最終篇の内部で抱きしめた。抱擁した。私はその最終篇を書いている間、馬とともにいた。かつ、いまもその馬ととともにある感覚を持っている。
馬だ。馬、馬だ。
馬がいたのだ。
それから私は和歌山に発ち、中上健次のお墓に、中上紀さんに案内されて参る、ということが叶った。こうやって書きながら、ふと、去年の10月には京都の東山の鹿ヶ谷で谷崎潤一郎の墓を探していて、しかし見出せなかったんだなと思い出す。私は熊野大学での講演で、中上と谷崎、というものにはかなり焦点を絞った。たぶん自分が連なりたいと念じている幻の系譜は、そういうところにある。それは日本文学の系譜というよりも古代から近代、それらを完全に超えて〈どこか〉の1千年の時間文学=物語であり、ゆえに世界文学である系譜だ。超越のための文学、物語、「揺らす小説」の系図。そういう自分の願いを、いっさい嘘を排して言葉にする、そういうことには覚悟が要る。だから、私はいっさいブレない自分をその講演の〈場〉に現出させられるように努めた。
その意味では、講演する私の後ろには馬がいた。
私は中上健次の『千年の愉楽』からの1節を朗読したが、それは、人=馬のいななきだった。
そういう朗読も、ある。
昨夏に亡くなった兄の、新盆が来て、一周忌の法要もまた来た。私は中上健次の墓のつぎに、兄の古川邦一の墓に参った。そういう順番だった。そして、その墓参した足で、激しい雨の警報が出されている東京へ戻って、毎週木曜日に4週続いて行なわれていた創作のための講義、の最終篇に臨んだ。3時間の講義を4回、だがそのうちの1回はすでに3時間20分になっている。その、締めの講義。受講生は「安全第一。オンラインの参加でよい。無理な登校は避けるように」とアナウンスされていた、だから私は、まあ2人か3人は目の前にいたらいいな、と、そんふうに思っていた。自分は豪雨にやられてびしょ濡れになって傘を強風にぶち壊されても、まあ、壇上に立つさ、と、そう思っていた。結果は、猛烈な熱意のある眼差しが、正面に、自分の予想の何倍もあった。もちろんオンライン参加の受講生にも、同じ熱、はあった。よかった、と思った。俺は無謀なことをやり続けている人間だけれども、誰かに熱は分けられている、と思った。
馬。
馬とともにいる。
今日、雉鳩荘の庭に出た。蝉が鳴き、画眉鳥(ガビチョウ)が鳴き、雉鳩が鳴いていて、私の周囲を3匹のトンボが旋回する。さあ、数日後から完全に『ツァラの創作論』だ、と私は思う。それは、私が誰かに「手渡す」ために執筆する論考であり、つまり系譜を連ねるための作業なのだ。新しい文学はここから始める。もう始めているし、始まっている。何も終わらせない。

