
題材の現代性と現代の非題材性
2026.08.29 – 2026.09.11 東京・埼玉・茨城
小説を書くために必要なのは「何を題材にするか」である。それは全部の出発点であって、ほとんど創作論の対象にする必要もない。その「何を」が見つからなかったら、書かなければよいのだ。しかし、その「何か」は簡単に見つかるのか? そういうことを私は熟考しはじめている。というのも、今年2月28日に始まった戦争だ。イスラエルとアメリカとイランの間の。その推移を私は真剣に追いかけようとして、そういう私はどうなったのか? 3月のなかばには倒れたのだった。
戦争というとんでもないことが「軽いこと」として扱われている。国際法という最重要なものが「蔑ろにしていいこと」として扱われつづけている。アメリカの政府の中心にいる人物たちによれば、半年以上が経過した〈これ〉は戦争ではないのだそうだ。戦争ではない戦争が続いていて、そこから〈現在性〉を把もうとする人間(たとえば私)は、ただひと言「馬鹿につきあうのは疲れた」と吐息をつく……。
だが馬鹿は世界を破壊する。
もちろん文化も破壊する。文学なんぞ、とっくに彼岸に追いやられた。
それで私は絶望したのかといったら、絶望している暇があったら、私は表現したい、行動したい、そして思考したい。というわけで私は、書き、アクションを起こし、思想となるべき何事かに肉迫化しつづけている。ところで私はいま「行動したい」と言った。だが、このような「小説の題材にもならない現代」において、いわゆる〈社会参加〉というのは未知の形態も採りうる。私はそういうわけで、いま現在も歩きつづけている。「お前が歩いたところで、世界がどうにかなるのか?」と問われても、「それは歩いてみないとわからないでしょう」と言える程度の覚悟で、歩いている。
つまり真剣に覚悟している。
たとえば1人の人間が、もしかしたら「倒れるかもな」との覚悟で歩を進めること。それは1億人の人間が「まわりには同じ意見の人たちがいっぱい存在しているから、私は守られている。うん、歩こう」と歩を進めるのとは、少し、または全く、違うということだ。
私にやれることは、ここに100人の村があって、99人が「歩かない」と決めた状況下で、歩いてみる、ということだ。たぶん、それは99人が「歩く」と決めて、お前はどうして歩かないのだ? という状況下で「歩かない」という行為よりも、ほんの2ミリか3ミリ、ラディカルかもしれない。
と、私は思っている。
私は、書いている。創作論を書いている。長篇の連載詩を書き終え、これから戯曲も書き、もちろん新作の小説は「いま、目の前にそびえている」ような状態にある。かつ、私は考えつづけている。誰もが〈思想する〉という様態から遠ざかりつつある現在、それをすることで「真に現代的な題材」にオカルト的に邂逅しようと念じている。そして歩き、行動している。その行動は、たぶん〈芸術〉のフィールドをめざして、ここからも続行される。
表現し、行動し、思想すること。
それを「ともにできる」人間を、ひと月に何人か、年に10人ちょっと、そして(ここからの)10年で10億人、私は見つけたい。

