ただ読むことと、それ以上の貪欲な読書と

ただ読むことと、それ以上の貪欲な読書と

2026.09.12 – 2026.09.25 茨城・東京・埼玉

創作論を書きつづけている。私は連載中の『ツァラの創作論』を、その雑誌連載はまだまだ続く予定なのに、もう全篇脱稿してしまおうとしている。連載何回ぶんもの原稿を書き溜めているのだ。が、そうした描写では実相は伝わらない。私は「分断しながら書いていたら、この創作論は、表層で終わる」と感じているから、発表はまだまだ先の論(ここには複数の論が含まれる。全体でひとつの創作論になる)もこの瞬間に、いま、徹底的にダイブしていて、つまり勢いを削がないようにしている。

つまり没頭しつづけて、書きあげてしまうのが〈正しい〉と判断した。そうである以上、やるしかない。
そして、こうやって没入して書いていると、予想を上回る〈論〉が浮上する。そこがスリリングだ。

私は2017年の春にロサンゼルスに滞在していて、UCLAで客員教授をやっていた。私がうけもったゼミの、その講義の題名は「日本文学と耳 The Ear in Japanese Literature」だった。このゼミに関する詳細は、以前、文芸誌「新潮」に書いた。たしか2017年の11月号で、原稿用紙換算で110枚を超える原稿だった。タイトルは「野生の文学(ワイルド・リット)を追って」といった。こういう原稿が埋もれているのはもったいないのだが、話の焦点はそこにはない。私は、10作品前後をたしかテキストとして採用した。たとえば柴崎友香さんの短篇を採りあげた回では、柴崎さん本人にゲストで参加してもらうという贅沢もやった。

それで、その授業は毎週だった。毎回3時間のゼミ。私は、その毎週の講義のための準備として、テキストは2度は通読し直した。私はもちろん、どの作品も過去に読み通していて、大半は複数回読んでいて、にもかかわらず、もういちど「授業のために」と読む時、その〈読み〉は徹底的に深まった。私は、当たり前なのだけれどもふだんは自分のために読んでいる。だが、その〈読み〉を他人と共有しよう、あるいは他人に伝えよう、「指導しよう」と思った瞬間から、〈読み〉の深度が変わった。

これは劇烈な体験だった。おまけに、ゼミの学生たちも、同じテキストを事前に読み、当日の朝までに私にレポートを送ってきていた。彼らの〈読み〉も真剣だった。その、個々の真剣な〈読み〉にぶつけられる、指導者(!)としての〈読み〉は提出できるのか?

ある意味で、私は極限を問われていた。だが、やった。楽しかった。

そして現在だが。いま私は『ツァラの創作論』を没頭して書いていて、また何作もの長篇小説を読み返している、深く深く、読み直している。その〈読み〉は、しかしUCLAでのあの〈読み〉とは異なる。私は、ひとりの書き手として、それぞれの作品の「著者たち」が何を試みていたか、その側面からのみ、読んで、掘ろうとしている。今度は〈読み〉だけの問題ではないのだ。いかに「掘れるか」でもあるのだ。私は同業者なのだ、彼らの。そんな彼らと、いっしょに、どのように「掘れるか」なのだ。

この、時空を越えた共同作業。
それは感動的である。

私はこの感動のままに、どうにか『ツァラの創作論』を脱稿に至らせようと、今日も意識を尖らせている。もちろん人と会ったり、それから Instagram 用に意識して写真を撮ったりもしているのだが。しかし、基本的には、午前中から午後の8時半まで、だいたいは〈読み〉の深みに嵌まっているのだ。そして書いている。書いている。