3月12日のことを書きます。岸田戯曲賞の選考会が行なわれる、その当日です。朝、「いっしょに発表を待とうか?」と言ってくれる人たちがいることを知って、本当にありがたいと思いました。ただ、どうしてだか、自分は静かに待つべきなのではないかと思い、自宅に家族といることを決めました。午前中は、執筆し、午後は、来週半ばに入稿する本の作業をして、それから画廊劇(3月30日と4月21日の「焚書都市譚」)に向け、ジムに行って肉体に鞭を入れました。夜、選考会は18時半からだということなので、その時間から、家でずっと震災のことに意識を集中しました。3月11日に東日本大震災を想うことは、それはもちろん必要だし、当たり前のことなのだけれど、少しでも延長して、その日の前後に延長して、意識をいつでも《痛み》のほうに寄せておかなければならない、どうしてだか、この3月12日は切実にそう感じました。意識を凝らしていると、本当に大事なことに気づきます。高校時代、演劇部にいて、脚本を書き演出をし、そこで築き上げられたネットワークが、震災後に「ただようまなびや 文学の学校」を動かしてくれる力になったこと。福島で演劇をしていたからこそ、地元の後輩たちやその他その他の人たちに助けてもらえたこと。それから、2011年の6月、まだ東京にも震災の《痛み》が満ちていた時に、都内の廃校の体育館で行なわれた蜷川幸雄さん演出の公演を観に行き、その「体育館」というのは避難所のメタファーで、そしてこの劇の当日に、蜷川さんから「ホン(脚本)を書かないか?」と誘われたこと。その依頼の日からずっとずっと考えて、戯曲の執筆を再開する、……俺は小説家だけれども、劇作もしよう、と決めたこと。始点は全部、福島だし、震災なのだな、とスーッと理解できました。そもそも、15歳の時に地元の市立図書館の「戯曲」コーナーに並べられた本を片っ端から読み、岸田戯曲賞の歴代受賞作も読み、この賞の《凄み》を体に叩き込まれ、自分は小説家なのに、芥川賞には反応しないけれど、岸田賞には劇烈に反応する、という人間になっていて、だから4年前に『冬眠する熊に添い寝してごらん』でこの賞にノミネートされた時には、心底感激したし、また、今回もです。そして3月12日の、今回の選考会は、思っていたよりも長く、2時間20分経ってもまだ携帯は鳴らず、さらに10分が経過すると、携帯電話ではないほうの、自宅の電話が鳴って、ああ、これは駄目だったのだな、と認識し、電話に出て、他の方のお名前を受賞者として聞きました。わざわざのご連絡を、ありがとうございました、と伝えました。あとは、ただ静かに考えていたのですが、そうだなひとつだけ残念なことがあるな、と気づきました。受賞したら単行本化される、との段取りが決まっていたことです。つまり自分の『ローマ帝国の三島由紀夫』は本にならないのだな、と悟って、この作品のためにつらいな、と思い、しかし、できることは歩むことだけだな、と思い、あとは、また仲間とともにモノを作ります。この文章(「お便り」)がアップされる頃には、もう画廊劇の稽古もスタートしているはずです。いいものになりますし、したいと念じています。それと3月23日の土曜日の夕方からは「、譚(てんたん) 近藤恵介・古川日出男」展の公開制作およびオープニング・レセプションです。公開制作は、そのイメージを予告映像でどうぞ。どちらも無料で、誰でも参加できますので、特に夜のオープニング・レセプションのほうは、ささやかな「残念会」にできたらいいのかなとも思っています。よければ「残念」とか「無念」とかお声がけにいらして下さい。そうしたら、ニヤリと笑って、先に進むようにします。
20190313