人類はどうして立体視をしているのか
私はいろいろと目=視覚に障害を負っている人間なのだけれども、もっとも根底のところで昔から考えている前提的な事柄がある。どうして眼球は左右ふたつあるのだろう? もちろん左右のそのふたつが機能できないかもしれない人たちの存在を頭の隅に入れた上で、こうした問いを立てると、私は、結局のところ人間は「そこにあるものを、ただ認めるだけでは足りなかった」のではないかと感じている。もしも、右目で見ているもの(対象物、事象、そして世界の展開)と左目で見ているもの(同じく対象物、事象、そして世界の展開)が完全に等しいのならば、ひとつの目で足りているはずだ、と言ってしまえている。
もしも右目で現在の現実を見ているのならば、左目ではコンマ1遅れの現実を、つまり過去を見てもいいのではないか。あるいはコンマ1早い未来を認識してもいいのでは? 私はどこかで、それこそが〈立体視〉の真実なのだと感じているのだ。
新型コロナウイルス(COVID−19)のパンデミックが発生して、世界中の人間がこの現実におののき、必死に「いま起きていること」に対応しようとして、そこから3年いや4年が経過して、そんな現実があったことも人びとはグローバルに忘れた。そこには爽快感すらある。こうした実相に私が苛立っているかと問われれば、そんなことはないよと即答する。ただ、もしも「人類がその魂のレベルで『立体視』をしている理由」があるのだとすれば、私は、あの時に世界中の私たち人間が右目でも左目でもパンデミックの現実(悲劇)に直面して、直視していたような気がするのだけれども、本当は片方の目ではちょっと過去のこととか、ちょっと未来のことを見ていたんじゃない? たとえば「アフターコロナ」だのなんだのと言って、ちゃんと数年後を考えていたんじゃなかったっけ? そう問いたい気持ちはやはり残っている。
私が出した『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』という本は、要するにコロナ禍というものがずいぶん昔の出来事に感じられる時期に入ったからこそ、あなたの左目のために、あるいは右目のために、この地上に物体(書籍)として残そうと試みた芸術作品なんだよ、と言いたい。私たちはいつもいつも、基本的には自分の人生のこともこの世界のことも両眼視している。それなのに、ひとつだけの眼球で見たような〈現実〉なのだと、やっぱり錯覚しているような気がしているのだ。
そのことに関してだけは、私は、「それって錯覚なんだよ」と告げたい。