ドキュメントの許容範囲
ある種の作品はそのまま素直に読んでもらえればよい。この『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』は、コロナ禍の世界(おもに日本、なかでも京都)がどのように〈世界〉に対して反応しているか、を記録しつづけるための文章だった。もちろん書き手の「僕」とは私、古川日出男であって、そこのところを疑われると何ひとつ文学作品として成立しない。その「僕」がある構想を持って文章を綴ろうとするが、綴れないほど〈世界〉に翻弄されるさまを、ということは「作品の軌道修正を迫られるさま」をきちんと描いていったのが本作である。なおかつ私は2023年4月には新型コロナウイルスにも感染した。そのこともきっちりとドキュメントしている。
1200年前に生まれた小野篁に現代の世界を体験してもらい、1000年前の人物である紫式部にいまの京都を観察してもらう、なおかつ「現代の世界」も「いまの京都」もパンデミックのこの地球上にある、との設定こそが肝だった。ここに〈オペラ〉が現出するためのドライブ装置は揃うわけだが、一見するとこれはタイムトラベルものだのタイムスリップものだのSF的な想像力が核にあることになる。が、それはたぶん、現代の日本人にとって「平安時代は遠くないから」なのだとも察する。もしも数万年という時間単位で〈現代〉を俯瞰したらどうなるのか? これはもうSFというよりも哲学の範疇にどんと嵌まる。私がやりたかったのはそれだ。だから、何万年か前の人類も出た。オペラにしてもオペラ後の作品の最終盤にしても、この「人類というのはホモ・サピエンスだけを指すのではない」との視座こそが、超ドキュメント『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』を(いわば)古川日出男の作品として成り立たせた。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人のDNAレベルの差異はささいである、との事実はすでに常識であって、日本人の私たちにもネアンデルタール人由来の遺伝子はある。かつ、それは免疫システムに大いに影響している。あと、これは(というかこれもか)作品内には書かなかったが、感染症というものが人類史を脅かさなかったら血液型というものも生まれなかった、と私は認識している。すると「血液型は人の性格を決定する」という独自の宗教観を持つ日本人は、もっとパンデミックに繊細に極端に反応してもよかった。ホモ・サピエンス・サピエンス[いわゆる人類]とホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス[いわゆるネアンデルタール人]とさらに日本人だけがその旧都から見据えられるパンデミックと。私の視座の内側には、とりあえず、ここまでのことがあった。そしてオペラの終演後に、それらをカーテンコールで示す必要もあった。作品の第5部「Curtain(カーテンコール)」のことだ。