火のノート
三島由紀夫の『金閣寺』ならば幾度も読み通した。この小説の内容は誰もが知っているだろう、ある青年が金閣寺(の舎利殿、いわゆる金閣)に火を放ち、焼失させる。それは実際に起こった事件に基づいている。ノンフィクションに基づいたフィクション、ということだ。この〈ノンフィクションに基づいたフィクション〉という構造的な部分を『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』は踏まえている、とも説けるが、私がここで解説したいのはそれではない。
何度も読んで、そのたびに何かを思う。しかし、読了直後に思うことと(それぞれの)読了から時間が経過して思うことは別である。少し離れた距離から『金閣寺』という小説を眺める時、つねに私はこう考えるのだ。「それで、あの主人公は生を肯定するために火をつけているのか? それとも否定するためにつけているのか?」と。もちろん小説の内部にはその答えがあるのだけれども、いったん小説(とは三島由紀夫の『金閣寺』だ)から離れると、その外部に見出される答えは違ったものになってしまう、と感じる。
私は『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』において、放火について、火薬について、そして火器について(も)書いた。書かなかったことは、火器の登場以前は、日本における武士だのヨーロッパに戦士だのといった存在は階層の上にいた、特別な〈プロフェッショナル〉たちだった、ということだ。だが、足軽が戦場の主役に躍り出たシーンが日本史上にもあるように、火器は、そんな〈プロフェッショナル〉ではない人間たちをも武士化したのだし戦士化した。たぶんこれは「身分体制を崩すことをはじめた」と言い換えられる。なんと戦争の発展は人類の平等に貢献したのだ。そして、私はそういう事実を腹の底から「くだらない」と感じている。
だからこそ「火に学ばなければならない」という金言もどきを作中に出した。だいたいメタファーとしての火は、つぎのようにも使える。この地球温暖化というか地球灼熱化の現在、それから今後の数十年間も加速するだろうが、こういった事態を私たちは「人類は地球に火をつけている」と言い換えられる。人類とは、揃いも揃って放火犯なのだ。しかも生きるためにそれをやっている。私はそれを「くだらない」と吐き捨てられる。そして人類史を考察しなければならなかった、とちゃんと吐露できるのだ。