雉鳩荘から小説を生む
2021年の秋に私は東京の西郊に転居した。付近には畑地がいまだ多く、森もあり川も流れる。私自身は「そこに現代の草庵をむすんで、思索し、創作する」ことをイメージとした。この理想の実践には種々の困難が伴うのだが、というのもコスパやタイパといった魔物どもが跳梁するのが現代であるからで、しかし雉鳩荘と名づけた拙宅の庭には、アナグマが訪れるしアライグマも出没する。そうした野生生物と目が合う(ほんとに視線がばっちり合うのである)たびに、ここは草庵だし、ここは東京都内の「うつほ」だなと感じる。うつほ、とは空洞のことである。岩や樹木の、その内側が空になっているところも「うつほ」と称された。
その、雉鳩荘に暮らしている私を襲う、たとえばタイパの〈魔〉の実例を語ると、これは2023年4月から朝日新聞紙上で始めた「文芸時評」だ、と言える。月に20冊ほどの新刊単行本を読んで文芸誌のその全誌の読みきりの創作に目を通す、ということをしていると、魔物どもは私をむさぼらんとしているかのごとし、である。そもそも、ちゃんと読もうとしているのでタイパ(=タイムパフォーマンス、時間対効果)は反・現代的である。この時評のための作業で、得られることは多々ある。が、同時に「感じる虚しさ」もある。私はこういう営みに没頭していて、いわゆる〈時代の空気〉はかなり知ることができる。が、これは横軸でしかない。みながみな、同時代のテーマ・同時代の読者・もしかしたら同時代の同業者にすら目を配って作品を産出していて、……いいや、実際にはそうではないはずだ。はずなのだが、そう感覚される折があって、それがほんとに、横に伸びる軸だけを想起させる。同時代性という横軸。すると本能的に、縦軸を欲している自分を発見する。
横軸だけを意識していると相対的になる。要するに「誰が・誰よりも・何々だ」の罠に落ちる。それでは駄目だ。絶対的な芯が欠かせない。そういう絶対性に自分を(あるいは自分以外のいろんな人たちを)触れさせるのは? ひとまず縦軸だ、と私は直観しているのだった。それは同時代性ではないのだから、時間が前か後ろに伸びる。未来あるいは過去。実際にたどれるのは? 過去だ、と即答できる。
だからこそ、と振りかぶりはしないけれども、私は日本最古の長篇小説である『うつほ物語』(かつては『宇津保物語』との表記で紹介されることも多かった)に直接に対峙した。しかし、それだけでは「古典やってる」のひと言で、やはり同時代アディクトの趨勢からは黙殺される……はずだろう。だったら「古典やってる」を「超・古典やってる」に変えるという手しかない。
私は全20巻ある『うつほ物語』を、たった200枚の小説に変えよう、とまず意図した。それから、その200枚の小説を、いっそ2部構成にして、あの男に縦軸を刺させよう、とまで構想した。その男とは日本最高峰の長篇小説の主人公で、それはつまり『源氏物語』の主役ということだが、要するに光源氏だということだが、この光源氏に縦軸を刺させよう、と無謀に発想した。
串刺しする男・光源氏の誕生である。
が、この構想は『うつほ物語』の側をたった半分の枚数に、つまり100枚以内に収めるという難業を私に課してしまい、その現実に向き合った自分はどうしたか? それなら「いっそ3部構成にしちゃうよ」と判断したのである。「そして俺も出しちゃうよ」と。
そのようにして『超空洞物語』という小説は、ここ雉鳩荘から、いわば現代の「うつほ」から、1000年前のうつほに響きあうように、誕生していった。さきに3部のその結尾に言及する。これは古川日出男が竹取の翁(おきな)になる小説でも、あるのだ。