超空洞、スーパーホロウ日本文学 #02

腕が手が指が小説を生む


その『超空洞物語』という小説は原稿用紙で190枚ある。こうした枚数あるいは文字数の計算だが、じつに簡単だ。なにしろ私は実際に、原稿用紙に、この作品を書いていったのだから。用紙じたいは特注した。用紙に名前もつけた。「超空洞譚」というのだ。ちなみに『平家物語』を現代語訳した際にも手書きはしていて、かつ専用の原稿用紙を版元に用意してもらっていて、そちらには「無常機関」との名がついていた。

それにしても、その「超空洞譚」と名づけた用紙に、私は『うつほ物語』を書いていったのだけれども、最後の最後に、この作品のタイトルは変わった。結局は『超空洞物語』となったのだから、これは「超空洞譚」という紙から発生するのは、ある意味で「正しい母親から生まれた子」のようなところがある。

たぶん私は、同業者・同業界の内部でも手書きの量が日頃から多い人間だと思う。そのうえで、私は「字というものは手で書かれるが、手を超えたものでも書かれる」と理解している。そこには指の存在があり、もっと大きな腕の存在がある。だが、それだけだとは思わない。書いている姿勢、つまりフォームだが、それが紙の上に出現する〈文字〉に、あきらかに内蔵されている。

たぶん漢字を書く時よりも平仮名を書く時のほうが、フォームの反映は大きい。平仮名というのは、そうした現実からも「漢字を崩して、生まれた」ことが証される。そして、漢字よりも平仮名のほうが、腕や肘、二の腕の運動を超えて、利き腕のほうの肩や、その反対側の肩、そして頸部と首の〈重み〉すら、受け止めて(紙の上に、つまり「超空洞譚」原稿用紙のその紙上に)出現しているという気がする。

書くという行為は、相当に複雑だ。そこに紙があるから、その紙を意識する。ペン先にインクをつけるから、インクを意識する。私は今回は『超空洞物語』執筆用にガラスペンを使用しているのだけれども、そのペン先の溝のうねり(そこにインクが保持される)を意識するし、ペンの軸も当然ながら意識する。

それは運動をすることに似る。というか、運動そのものだ。私はつまり、その『超空洞物語』を手書きで生み出そうと努めながら、〈書く〉というその瞬間には、1)運動していた、2)思考していた、3)表現していた。これらが融合する時間があった。また、ペンを走らせていると、その音がある律動のような感覚をもたらす。つまり私は書きながらずっと「聴いていた」のだし、もちろん書かれた文字を紙上にそのまま確認しつづけていたから「視ていた」という行動もずっと伴われていた。

そしてペンがあり、握っていて、掌の底部は原稿用紙に接し、触れていて、そうした〈触覚〉は大きかった。

私は、ここで正直に語るが、身分制度の存在しない現代の日本においても「賤の者だ」と自覚している。しかし産出される作品は時に「聖なる文学」にもなる。ここで何が起きているのか? 何が、賤を、聖に反転させているのか?

今回の『超空洞物語』でいえば、紙だったのだろう、と思う。つまり、紙とはカミ(神)に接触可能とするミディアムだったのだ。こんな賤の古川日出男ですら、聖を触知していいよ、と告げてくれるミディアムだったのだ。だから琴を演奏するように、私はその『超空洞物語』が書けた。

私は、絵筆を執るようにも、たぶん『超空洞物語』が書けた。