現代からその小説を生む
その小説、『超空洞物語』は8月15日に開幕する。この設定は最初のページを開けば、たちまち判明する。同じページで宮中(皇居)が言及されて、2ページめの1行めには帝という人物が言及される。帝とは、天皇の尊称である。このような記述は著者の私によって意図的になされている。そして、これまた読めばただちにわかるのだが、場面は夜の、満月で始まる。それは8月の十五夜だ、と素直に了解されるだろう。つまり、その8月15日とは、陰暦(旧暦)のそれなのだ。
だが新暦だとしたら? これが現在の暦だとしたら? 私たちはただちに違うことを連想する。新暦の8月15日が言及されて、続いて天皇(帝や陛下)の語が現われたら、私たちはたちまち第2次世界大戦での敗戦のことをイメージする、はずだ。なぜならば玉音放送がその日の昼に、あった。その日の正午、レコード盤に録音された昭和天皇の声をラジオが放送した。「ポツダム宣言を受諾し、降伏する」旨をその声は語った。
だが、それは昼のことであり、夜のことではない。私のその『超空洞物語』という小説は、8月15日の夜に始まり、満月を出して、それから帝/天皇/陛下に言及する。それは陰暦の時間の内側にあるシーンであり、現在の暦すなわち新暦の内側にはない。だからこそ、帝の語が現われても、連想しうるのは月見の宴のみ、となる。華やかな管絃の宴のみ、となるのだ。
じつはこれは驚異的な事実である。8月15日、の、天皇、と聞いて〈華やかな宴〉を連想する読者がかつて数多いた。むしろ、それを連想する読者しかいなかった。だがしかし、現在の読者は、同じ二つのデータ(日付と名詞)を聞いて、〈敗戦〉だの〈終戦〉だの政治的なもろもろだの権力だの責任だの平和だの未来だの過去だの、そういったものを想い描いてしまう。しかも、(いま言った)その過去には〈華やかな宴〉とその主催者の帝、は登場しないに近いのだ。
これだけで、その『超空洞物語』の読者が全員、現代にいることがわかる。
読者が現代にいることが証明される。
その『超空洞物語』内に要約されて逆さ向きに語られる『うつほ物語』という平安期の巨篇は、原典のエンディングでは8月15日の夜に衝撃的な琴の演奏を現出させている。たぶん容易にイメージしてもらえると思うが、琴の音というのはガンガン鳴ったりしない。弾奏される琴の音は、むしろ、そっと周囲に広がる。にもかかわらず、ある場所で演奏された琴のそれが、遠く離れた宮中(皇居)内まで届いてしまう、との描写が『うつほ物語』には現われる。それは、要するに、アンプをかけられた状態に近い。その衝撃的な〈7絃の琴の弾奏〉は、現代のたとえばロック史で言ったらジミ・ヘンドリクスの登場によるギターの変容、その衝撃に等しいな、と私は直観して、そんなふうにイメージしてしまった私はまさに現代にいる。現代の読者である。
8月15日と天皇、ジミヘン。この(あの/その)感覚を持ってしまう私や私たちは、たぶん以前の読者たちからは想像もつかない世界にいる。私たちのほうこそが彼岸にいるのだ。この彼岸とは、そのまま〈あの世〉と言い換えてかまわない。
つまり、私は読者こそが〈あの世〉にいる小説を書きたかった。古典を題材にした作品は、なにか「古くささ」や「面倒くささ」や、そういった否定的な感触を事前におぼえさせるのかもしれない。が、私がやりたかったことは逆だ。読者のほうこそが死んでしまっているに等しい様相、それをこそ幻出させる。
そうなのだ、それを〈幻〉として出す。そういった状態を。
私たちは彼岸から、その物語を眺められる、はずだと私は信じた。しかしながら、だからこそガラス越しに。なにしろ私たち現代の読者は、新しい8月15日と旧い8月15日とを容易につなげられるミディアム(霊媒)ともなれるのだ。