蔵出し・『夏迷宮』の構想時の試作、郡山小説その一

掌篇「善悪の彼岸・郡山」

明治十年代に郡山は変わった。生まれ変わったと言い切ってもかまわない。ところで時代が下ると、明治十年代と言われても「それがいつ頃か」がイメージしづらいという事態にもなる。西暦に直すならばその十年間は一八七七年から一八八六年までとなる。
この十年間を迎える前の郡山の人口はおよそ五千人。
そして迎えて以降の郡山はひたすら人口を増やす。
と同時に、郡山の西部一帯に広がっていた原野も減らす。その原野が開墾されたから、である。そこを安積原野といった。この原野が明治政府の国営事業として、開拓され、猪苗代湖からの疎水(用水路)も切り開かれる、そういう次第となった。着工は明治十二年。その前年から郡山には士族(旧武士階級)たちが続々移住してきた。最初に久留米藩、これは福岡県の南西部だが、つまり九州の旧藩士族とその家族が移ってきた。そして四国の土佐や松山からも、中国の鳥取と岡山からも、また愛知、米沢、そして福島県内の会津、棚倉、二本松からも旧藩士族が郡山に移り住んだ。
郡山の西部一帯に、散らばるように、である。
郡山のフロンティアである、荒れた西部に、である。
よいことばかりが起こったか? あるいは、美談ばかりを語ってよいのか? いいや。郡山というのは宿場町だった。泊まれる、酒を飲める、他の遊びもできる。それが人口およそ五千人の郡山で、そこに、明治十年代、さらに何千人かが全国(の合計十藩)から集まって、開墾に疲れたら町でハメを外そうともした。しなかったはずがない。しかも、彼らは士族……つまり帯刀していた。
問題は明治十年代になった年と、その前の年である。
まず、明治九年に廃刀令が出た。「もともと武士だとしても、刀を帯びるな」と命じた。
その前に、明治四年に脱刀令というのも出ていて、ここでは「もともと武士でも、刀は帯びないでいいよ」とやんわり言っていたが、今度は強制した。
当然、士族は反発した。
その最大の、しかも結果が無残だった抵抗が明治十年の西南戦争である。
「帯刀は武士の特権だ!」と彼らは思ったし、それゆえに西郷隆盛は挙兵して(総兵力三万人)、政府軍と激突して(こちらの兵力は六万人余)、敗れた。
そうしたことが鹿児島士族を中心に九州各地で起きた。日本列島の西南で。
いっぽう、日本列島の東北、福島県の郡山……。
全国から集って安積開拓にいそしむ旧士族の男たちが、町の中心で飲み、意気投合し、あるいは喧嘩口論し、また女たちを巡っても争う。なにしろ郡山は、宿場町なのだ。繁栄した宿場町には、酒がある、その他の遊びがある。もちろん男たちの衝突はあって、さらに厄介なことに、彼らは互いにはあまり通じない九州の、四国の、中国の、そういった方言で罵倒し合っている。ぜんぜん話が通じない。
ついに男たちは、あれを出す。
帯びてはいけない刀を取り出す。
そして白刃と白刃が、斬り結ぶ。明治十年代の郡山で!
そこにあるのは決闘であり、彼らはみな郡山の西部一帯から町の中心に来ていたのだ。
ワイルドなワイルドな、郡山の西部(ウエスト)から。
こうして野生の西部の、日本史上の画期となる西部劇(ウエスタン)が郡山にて展開する。ザ・フロンティア。