特別寄稿「最初の編集者の告白」

『13』『沈黙』『アビシニアン』というデビューからの三作品を手がけてくださった《最初の担当編集者》志儀保博さんに、当時の思い出話を綴っていただきました。衝撃と苦笑と感動の秘話満載です。

「忸怩たる思い」

古川日出男……と書くと胸に疼きを覚える。わたしの30数年の編集者人生で、彼は、わたしに訣別を言い渡した二人の作家のうちの一人だからだ。
わたしは古川日出男にとって厄病神だったのだろうか、といまでも思う。

1997年。何月だったか誰の紹介だったかは忘れた。その頃、四谷1丁目にあった幻冬舎のすぐそばの、いまはもうない古ぼけた山小屋ふう喫茶店ピステ。焼うどんの匂いが充満し、ミルクセーキを飲む客が何人もいる中で、わたしたちは初めて会った。それは急な話だった。
わたしはまだ若く、わたしより1歳年下の彼はさらに若く、潑刺としていた。
話すとき彼はいつも体を小刻みにシャッフルさせ、話題が何であっても熱っぽかった。
わたしは途中まで読んだ彼の『砂の王』の感想を話した。ゲームのノベライズの体裁から大きくはみ出たこの異形の作品を彼はあまり気に入っていないようだった。
「そんなものより…」と言って彼が鞄から取り出したのは後に『13』となる原稿の冒頭部分だった。
一読、衝撃を受けた。うわっ、天才だと思った。興奮した。ワープロから打ち出された文字は、使っている語彙だけで、もう才能の有無が瞬時にわかる。使っている漢語の字面が硬軟とりどりの和音を奏でて響きだしたのだ。
A4のワープロ用紙に8枚だったか10枚だったろうか。原稿用紙にして30枚ほどの分量の原稿を読んで、わたしは「これは出版するから、どんどん書き進めてほしい」と言った。
以降、彼は書き進めるたびに原稿を送ってくる。どんどん面白くなった。

この間、わたしたちは何度も会って食事をした。
彼は基本エスニック好きでタイ料理、韓国料理、インド料理、中華料理によく行った。いつも『13』の続き、次の小説の構想、その次の小説のアイディア、そのまた次の小説に必要な資料の話……ずっと小説の話ばかりした。

やがて『13』が出来上がったと連絡があった。すぐに完成原稿が送られてきて読んだ。じゅうぶん面白い。でも、わたしは物足りなかった。古川日出男は天才だ。天才の小説がこれでは物足りない。小説は終わっていたが、わたしは終わった気がしなかった。いや正確に言おう。それはふつうの小説のエンディングではなかったから戸惑ったのだ。不快ではなかったが、不満だった。それが『13』のまるまる「第一部」だ。
「この小説は続きはないの?」わたしは訊いた。
「ある。まだまだ続く。すぐに書きます」そう言う彼に期待した。
そして彼は「第二部」を書いた。しかし、それは、まったく想像もしなかった代物で、わたしは頭を抱えた。これはふつうの小説じゃない。強いていうなら詩だ。既成の「ストーリー」というものを拒否している。芸術だった。
これは売れるだろうか。評価されるだろうか。わかる人がいるだろうか。心配が募った。
が、その後の本作りは楽しかった。
単行本『13』のカバーまわりはうまく出来たと思う。芦澤泰偉さんが素晴らしい装幀をしてくれた。装画に使うアンリ・ルソーの絵画「蛇使いの女」のポジフィルムを外国の美術館から借りるのに少しばかり苦労した記憶がある。
池上冬樹さんならこの小説をわかってくれそうな気がしたので推薦の言葉を依頼しようと思った。それまで会ったことも話したこともなかったが、池上さんは「とりあえず読んでみます」と言ってくれた。世に出すにあたって、よき船出を見送るには池上冬樹さんの推薦の言葉だけが頼りだった。池上さんのありがたい推薦文で初めて「この小説の表現はマジックリアリズムという範疇に入るものなのだ」と知った。
やがて『13』の見本が届く。わたしは彼にすぐバイク便で送った(当時、多摩地区に住んでいたんじゃないだろうか)。
届くと彼は興奮して喜び「妻が泣いている」と電話で言った。
が、『13』は他に皆川博子さんと豊崎由美さんが激賞してくれたくらいで文芸書評では、ほとんど無視された。「驚異の新人のデビュー作」の船出は静かすぎた。
それでも次作の打ち合わせをするため、わたしたちはその後も何度も会って食事をした。

あるとき彼は「ここ何週間か椎名林檎のことばかり考えてる」と言った。彼女がメジャーデビューし、ファーストアルバムを出したばかりだった。わたしも「勝訴ストリップ」を聴きまくっていた。夜を明かして椎名林檎についてずっと語り合った晩もこの頃のことだったと思う。
「次は一族の話を書きたい」と古川は『13』を書いているときから言っていた。
わたしの頭の中に浮かんだのはのはガルシア・マルケスではなく、北杜夫『楡家の人々』と横溝正史『犬神家の一族』だった。わたしは彼が未読だった両極端のこの2冊を渡した。
『楡家の人々』は気に入ったようだったが、『犬神家の一族』はよく思わなかったようだった。
しかし、第二作は書き進められ、やがて脱稿する。

「千年の旋律」と題されて始まった小説は、またもや芸術作品だった。わたしはこの題名が、どうも少女マンガのタイトルように感じられて腑に落ちなかった。それで、音が溢れるこの小説に敢えて「沈黙」というタイトルを付けることを提案した。意外にも、彼はすんなり受け入れてくれた。
そして『沈黙』は世に出た。が、これは前作以上に書評が出なかったような気がする。
しかし彼は、そんなこともあまり気にしていない様子で、すぐに次作に取り掛かった。
わたしは古川日出男以上に古川作品に評価を求めていたのだと思う。
もっと言えば古川日出男を売れる作家にしたかった。
これだけの才能を使って、多くの人がわかってくれる、通俗的な小説を書いてほしかった。三島由紀夫だって通俗小説も書いてるじゃないか。
この頃、彼は雑誌「ビデオでーた」のライター仕事で主に生計を立てていたはずだ。毎月毎月、新しくビデオになる映画のあらすじを200字でまとめる仕事を何百本もしていた。
わたしは、かなり恥ずかしかったが、古川日出男に「もっとふつうのストーリーにしてくれ」と頼んだ。小説はなんでもありだけど、なんでもありで書いていちゃ、読まれない。古川芸術は素晴らしいけど、これでは売れない、と。
彼は怪訝な顔をして「どうしてそんなつまらないことを言うんだ? 俺はビデオでーたで毎月あらすじを山ほど書いている。ありとあらゆるふつうのストーリーが頭に入っている。俺はそうじゃないものが書きたいんだ。なんで志儀さんは、そんな悲しいことを言うんだ?」
そんなやりとりを何度もしながら第三作『アビシニアン』は完成した。小説でありながら完全な詩だった。純・純文学と言い変えてもいい。わたしはこの作品が好きだった。いや、作品も好きだったが、作品以上に古川日出男が好きだった。それは、あの単行本『アビシニアン』の美しすぎるカバーを見てもらえばわかると思う。
『アビシニアン』の見本が出る直前、ある純文学の雑誌の編集者に『13』と『沈黙』を読んでもらい、純文学作家としての古川日出男を売り込んだ。が、その編集者からは「この作家は小説の書き方というものを知っているんですか?」と言われ絶句した。わかってもらう以前に相手にしてもらえなかった。これは当時のわたし自身のプレゼンスの問題かもしれない。が、まさに手詰まりで八方塞がりだった。
すぐに『アビシニアン』は完成した。が、その頃、わたしたちの関係は冷え切っていて、あれだけよく会っていたのに、この本は打ち上げすらしなかった。その頃、わたしは別の作家との仕事で猛烈に忙しくなり毎日、追われていた。
そして『アビシニアン』の発売と同時に古川日出男から絶縁状が届いた。そこには、これまでの感謝の言葉とともに「しかし、もうあなたとも、あなたの会社とも仕事はできない」と綴られていた。
ショックだったが、少し安堵もした。
それから1年半後、『アラビアの夜の種族』が出る。いままでとはまったく異なる、相次ぐ高評価を雑誌で目にした。この作品はご承知のとおり推理作家協会賞と日本SF大賞を受賞した。わたしは自分の無力さに天を仰いだ。

さらに4年後、『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞したとき、ひと言お祝いの言葉を告げたくて贈呈式会場に赴いた。会うのは6年ぶりだった。彼のほうから手を差し出し握手を求めてくれた。
これが、わたしと古川日出男の、すべてだと思う。
古川日出男が「芝居をやってたときに使ってたんだけど、俺はもう使わないから」と、ある時プレゼントしてくれた、ローランドのパーカッション音源のリズムマシンがいまも手元にある。「リズムパターンのプログラミング機能が壊れてるけど、音は出るから音源としては使える。よかったら使ってよ」と彼は照れながら言った。趣味で音楽活動をしていたわたしは、このリズムマシンをライブでも録音でも1度も使わなかったけれど、どうにも捨てられない。わたしたちは、お互いがこのローランドのような存在だったのだろうか。


志儀さんが担当してくださった初期三作。『13』『沈黙』『アビシニアン』

志儀保博(しぎ・やすひろ)

幻冬舎・取締役常務執行役員、編集者
1965年、京都市生まれ。1987年、広島大学文学部卒業、徳間書店入社。1994年、幻冬舎入社。2006年、幻冬舎新書を創刊。これまでに500冊近い書籍を編集する。おもな担当作品は小林よしのり『戦争論』(1998年)、島田裕巳『葬式は、要らない』(2010年)、恩田陸『蜜蜂と遠雷』(2016年)など。

やりとりをし、受け取って

驚きや感動は、3度ありました。まず、このサイト用にと志儀保博さんに原稿(随筆?)をお願いすることを自分が決めたこと。それを、志儀さんが、快諾されたこと。そして、届いた原稿を読んだ時に、はっきりと「感動している自分」がいたこと。こんなに強い、容赦のない、しかも面白い、妥協のない、そんな凄まじい原稿をいただけるなんて、想像もしていませんでした。ここに書かれていることは事実で、かつ、記憶は志儀さんと僕のあいだで、それぞれ少しずつズレていたり、歪んでいたりします。たぶん、そうなっています。けれども、志儀さんは「そういうふうに憶えて」いて、僕は「そうではないふうに憶えて」いて、それでも我々がともに真実を見て、真実を記憶し、語ったり、書き留めたりしている。これって、まるで《歴史》の誕生だな、と感じます。あの人はこう記憶している。私はこう記憶している。そして、私たちは歩み寄る。その果てに、《歴史》が生成される。そうだ、そういうことなんだと思います。編集者としての志儀保博は、僕の作品を売らんとした、真摯にその達成を求めた、熱があった、かつ、小説家としての古川日出男は、ただ産もうとした、産みつづけんとした、熱があった。熱と熱。だからこその、そうした、ふた昔前の日々。ありがとう志儀さん。ところで、僕は1949年に坂口安吾が某出版社に絶縁状を送りつけた、との逸話をトリガーにして、目下「群像」誌で非常にメガな作品の連載を進めているのですが、よもや自分の若き日の絶縁状がこのようなタイミングで掘り起こされるとは……と、やや絶句しています。以上。(古川)