超空洞、スーパーホロウ日本文学 #01

雉鳩荘から小説を生む

2021年の秋に私は東京の西郊に転居した。付近には畑地がいまだ多く、森もあり川も流れる。私自身は「そこに現代の草庵をむすんで、思索し、創作する」ことをイメージとした。この理想の実践には種々の困難が伴うのだが、というのもコスパやタイパといった魔物どもが跳梁するのが現代であるからで、しかし雉鳩荘と名づけた拙宅の庭には、アナグマが訪れるしアライグマも出没する。そうした野生生物と目が合う(ほんとに視線がばっちり合うのである


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パンデミックそしてオペラ #04

火のノート

三島由紀夫の『金閣寺』ならば幾度も読み通した。この小説の内容は誰もが知っているだろう、ある青年が金閣寺(の舎利殿、いわゆる金閣)に火を放ち、焼失させる。それは実際に起こった事件に基づいている。ノンフィクションに基づいたフィクション、ということだ。この〈ノンフィクションに基づいたフィクション〉という構造的な部分を『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』は踏まえている、とも説けるが、


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パンデミックそしてオペラ #03

ドキュメントの許容範囲

ある種の作品はそのまま素直に読んでもらえればよい。この『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』は、コロナ禍の世界(おもに日本、なかでも京都)がどのように〈世界〉に対して反応しているか、を記録しつづけるための文章だった。もちろん書き手の「僕」とは私、古川日出男であって、そこのところを疑われると何ひとつ文学作品として成立しない。その「僕」がある構想を持って文章を綴ろうとす


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パンデミックそしてオペラ #02

土地そのものが〈キャラクター〉であると感じさせる京都

インタビューに臨むと「どうして京都なのか?」と問われる。また「どうしてオペラなのか?」とも問われる。おもしろいのは「どうしてパンデミックなのか?」とはどの取材者も問わないことで、要するにパンデミックは書籍(作品)とするに価する、との了解があるのだろう。私が『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』を出して、この本の題名には京都・劇場・パンデ


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パンデミックそしてオペラ #01

人類はどうして立体視をしているのか

私はいろいろと目=視覚に障害を負っている人間なのだけれども、もっとも根底のところで昔から考えている前提的な事柄がある。どうして眼球は左右ふたつあるのだろう? もちろん左右のそのふたつが機能できないかもしれない人たちの存在を頭の隅に入れた上で、こうした問いを立てると、私は、結局のところ人間は「そこにあるものを、ただ認めるだけでは足りなかった」のではないかと感じている。もしも、右目で見ているもの(対象物、


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本流探索

わが四半世紀の自著10冊

作家デビュー25周年の1年間を通過した数日後、私は仕事部屋の棚をいじった。27年め以降の作品群(それらはまだ生ま


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の、すべて、のほんの少し #02

[  ]の、すべて

『の、すべて』の最初の楽章の、その基調とはいったい何か? これは「第一楽章『恋愛』」との扉を具えたパートであることから容易に察せられるように、恋愛小説であること、である。私は前作(『曼陀羅華X』)の刊行時から、「次作は軽やかな作品を発表したい」うんぬんと公言していて、たとえばそういうのは通信社のインタビュー記事などで活字になっていたのだが、その〈軽やかさ〉の体現がこの『の、すべて』の


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