天音、そのオンとオフ #03

現在と永遠、そこに宙吊りになるもの


私の長篇詩『天音』は、ひと言でまとめれば「2022年の詩」ということになる。これは2022年の世界を描いた詩、との意味でもあるし、2022年の世界に生きた作者(とは私だ、古川日出男だ)の詩、と解釈してもよい。後者は、2022年の古川の目から捉えられた現実、とも言い換えられるわけで、おもしろいのは、私はここで意識的に「2022年のある時期をドキュメントする」ということをやっている。しかし、普通に考えて、ドキュメンタリーが詩なのだろうか? それは通常もっと別のジャンルの文学(文学作品)に属することにならないか?

そこまで考えると初めて、「それでは詩とはなんなのか?」との本質的な問いが出る。基本的には小説家である私は、詩と小説の違いをシンプルに説ける。小説は句読点を要求する。テン(、)とマル(。)ということだ。しかし、詩は、それをそんなには求めない。むしろ、意図がないかぎりテン(、)もマル(。)も投じない、ということを詩はやっている。現代詩を例にとると逆にわかりづらいかもしれないので、ここでは俳句や短歌を念頭に置いてほしいのだけれども、もし、その1句や1首にテン(、)やマル(。)が入っていたら、あなたはたぶんギョッとする。実験的だなあ、とも思うはずだ。

小説家である時の私には私なりの句読点とのつきあい方がある。しかし、それは特殊な例だとも言えるので、より一般的なことを語れば、たぶん句読点という符号は、そこに書かれている文章の「論旨を明確にする」ために投じられる。その人の言いたいことには筋道があって、その筋道は、そこで一時停止して、ここでいったん終わるんだよ。それから次の筋道が……という明示なのだ、と言い直せる。句読点は「つまりね、そういうふうに読みなさい」との指示でもあるのだから、これは法である。日本語はそうだし、たぶん、おおかたの言語(の書かれた文章)においてそうなのだと思うけれども、この法が、「(ここで文章が始まり、そして)ここで文章が終わる」と規定する。この法が〈言葉〉を支配している。

しかし、その句読点を、詩はけっこう放りだす。いきなり冒頭から捨てる。いま、ちょうど私のかたわらの本棚に谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』が刺さっていたので、そこに収録されている最初の詩(題名は「生長」という)の、その最初の2行を引用すると、

  三才
  私に過去はなかった

である。ほら、句点はない。読点もない。そして、実際のところ何が起きているのか? 言葉が、法には縛られない自由な方角に向かって、もしかしたら〈永遠〉に向かって、投げ出されているのだ。……柔らかい言い方に変えるならば、そういう地平めざして「さし出されている」のだ。

それが詩である、と考える時に、それでも〈現在〉のことをドキュメントした詩を私は書いたのだ、長篇詩『天音』とはそれなのだ、との主張に入る時に、さらにツイストがかかる。私は、たぶん2023年以降の日本人だの地上のあらゆる人類だのが確実に忘却するだろうから言うのだけれども、その感染症のパンデミックは「いつまでも終わらないもの」と見做されていた時期があって、それはつまりテン(、)もマル(。)も見えないということだったに近い。小休止はない、終点もない。

その世界状況は、まさに詩にふさわしかった、と私は言い切ってよいだろう。

(撮影:かくたみほ)