〈 〉の、すべて
まず初めに恋愛小説が志向された。しかし、恋愛小説を現代に成立させるために何が必要なのか、を熟慮すると、現代には恋愛小説はほぼ成立しえない、のような解に至った。私はひじょうに困った。結局、私は政治小説および宗教小説の要素が渾然一体とならないかぎり、自分が「やろうとしている」恋愛のスケールは出ない/出せないと結論する。だから〈それ〉に挑戦するわけだが、すると政治と宗教と恋愛がまさに渾然一体となっていた時代の日本、というものをあっさり再発見することになって、たとえば平安王朝期である。あるいはその(平安王朝の)末期、いわゆる院政期である。私は『平家物語』のその「前語り」にだって、
〈平家がいわゆる軍記物語だと思い込んでいる人は仰天するだろうが、この作品(の四巻めまで)……にあるのは、(合戦の描写というよりも)むしろ政治、政治、政治だ。あとは宗教。そして恋愛〉
と書いている。断じているのである。そして、合戦よりも恋愛に特化しているようにパブリック・イメージ public image の付いている古典は? これはもう『源氏物語』だ。そのようなわけで、じつは〈現代の貴種〉=大澤光延は、光源氏をその遠い祖先としている。『源氏物語』を下敷きにしている。あるいは「源氏を根拠にしている」と言い換えてもよい。私は朝廷と国会、東京都議会、などと連想的に思考した。それこそ「頭の中将(とうのちゅうじょう)」と垂水勝、などとも。
が、そういった著者・私の構想は、2022年7月8日にもろくも崩れた。元首相・安倍晋三が銃撃されて、命を落とした。私は『の、すべて』の主人公・大澤光延が、現職都知事の段階でテロに遭うだの、この時点で「近未来の首相」を確実視されているだの、そういうことを同時期に雑誌に書いていた。書いて、発表していた。「群像」誌上での連載中に。そうしたらこういう悲劇が、惨劇が起きた……愕然としたし、全身というよりも全脳が金縛りに遭うようだった。全脳、すなわち思考のすべてが。の、すべてが。
それで、私はどうしたのか? それで、私は初期の構想(にして所期の目的)を捨てた。もはや『源氏物語』の下敷きはどうでもよい。飛躍することが要る。そのために私は、現在〈第四楽章〉となっているパートは、いったん手書きで、横罫のノートに書いた。「この肉体を駆使する」ためにだ。コンピュータやスマートフォンにはない〈疲労〉を求めて、でもあった。誰かが、肉体から何かを(……もしかしたら、すべてを?)奪われたのだった。だとしたら、こちらは肉体からなにごとかを付与しなければならない。
私は、この手書きのノートに〈Mのノート〉との名をつけた。表紙には Mako. とある。また Tokyo. ともある。写真はその1ページである。