このお便りがアップされる時刻に。世田谷美術館バージョンの朗読劇『銀河鉄道の夜』はゲネプロ(本番同様のリハ)がスタートします。今回の公演は、2011年12月以来のどの作り方とも異なり、制作・運営を担うチームとの会場下見&打ち合わせの日、さらに照明さんや舞台監督さんを交えての再度の下見&打ち合わせの日、さらに音響さんも揃えて全演者も加えての機材と客席の仕込み&リハーサルの日、が事前にあり、本番直前の明日(2018年9月28日)に上述したようにゲネプロを/まで行なう、という段取りを踏んでいます。まさに《劇》として立ち上がる部分が多いです。また、僕の個人的な視座というか野心から言えば、《美術》として場を設定することも大事な目的となっています。なにしろ美術館の、そのエントランスでの上演なので。何が生まれるかは、もちろんここからの自分のチューニング次第なのですが、とはいえ、全体の演出はほぼ付け終わっているので、どうにかはなるかもしれないし、きっと没入します。ここまで専門的なスタッフが揃えられる環境が提供されたことに、心から感謝して、新しい『銀河鉄道の夜』の宇宙を、僕は泳いでみます(その宇宙のなかを)。しかし、この1週間、いやいやじつに激しく労働しました。なんというか「絶賛過労中リローデッド」状態ですが、やりがいは凄い日々です。まず、僕の作品集『ポータブル・フルカワ』、これは520ページほどの大冊になることが確定し、昨日(9月26日)再校ゲラの修正、すなわち最後の赤字を入れ終えました。外側の顔=デザインも強力極まりないので、凄まじい佇まいになるかと思います。この『ポータブル・フルカワ』もまた、作家デビュー20周年記念出版です。早く、そのデザインや、仮題(『ポータブル・フルカワ』)のみだけでない正式書名もお知らせしたいのですが、まあやることは順番に。で、中国から帰って以降、僕は2014年からずっと審査員を務めている福島県文学賞の担当部門の候補作11本を読むことにも時間を使っていて、その作業はこのお便りを書いている4時間前に終わりました。あと、来月刊行の文芸誌「新潮」に掲載される書評のため、小松理虔さんの分厚い『新復興論』も読んでいて、その原稿(つまり書評)も書き上げました。『新復興論』はすばらしい本でした。ところで福島のことに触れて福島の復興を考える本について触れて「新潮」と書いたので、その流れで、ひとつだけ。たとえば震災の発生直後、東京電力は相当なバッシングにあいました。東電の、その姿勢というか、たとえば現在でも「汚染水放出問題」における情報開示の仕方などを思うと、それは当然だなと僕は考えています。その上で、「東電の社員にも(その末端まで全員)責任がある」「東電から給料をもらっている人間は××だ」的な発言、あるいは風潮には違和感だけを覚えました。会社、または担当部署、というものと、それも含めた「全社員(というひとりひとりの人間)」は、違うのにな、と感じていたのです。どうして、新潮社の本は売らないだの、買わないだの、新潮社ではもう本は出さない、書かないだのということになるのだろう。そのことが寂しいです。会社には責任がある。担当部署には責任がある。しかし、全社員(他部署)に……ある? 先日、僕は中国に行ったわけです。日本には、「あのこと(おおよそ19世紀末からの『あのこと』)」に関して、責任があります。僕は、それに関して語りもしました。日本という国には責任がある。戦時中あるいはそれ以前の、ある組織・部門には、また個人にも責任がある。しかし、だから日本人全員が……中国の方たちに憎まれて、よい? そうは思いません。そして、そんなことは、中国の方たちだって、完全にわかってくれています。問題は、何であれ、一部の暴走です。
20180927