まだ戦えるのだろうか? 今日は2月の末日で、今月は、いろいろとアナウンスしたように発表に発表を続けた。執筆に執筆も続けた。最新号の「新潮」誌上に載せた評論『三たび文学に着陸する』の冒頭、わずか2行めに「私は書きつづけたい」と記して、その思いを「切実」だとも形容した。評論、シンポジウムの記録(「すばる」)、連載(「群像」)、新連載(「MONKEY」)、そこまで続け、しかしオプティミスティックになれる要素を見出せない。怪物がこの世を呑み込んでしまっている、とも感じる。我々は所詮、もう疫病にやられたのだ、とも感じて、つぶれそうになる。文字と文字との会話は成り立たない。あらゆる発言が、以前のようには意味を有さない。無意味というより無力だ。ならば読め、と俺は俺に言い、また、俺のあとにいる……のかもしれない人たちにも言う。読め、読もう、と。読まなければ、それらの本は消える。小説が評論が、詩が消える。それらを「殺さない」ために自分たちにできることはひとつだけあって、それらの読者になることだ。言葉はもう、いまの時代には剣ではない。針ですらない。しかし、言葉が人を殴打できないものであるとするならば、それは祝福に値する。殴打されて、殴打されて、自らは殴打しない。そういった手もあり得る。読む、それだ。それだけだ。読む。ある人間が読む、それは世界を多元化させることだ。2人が読み、3人が読む、意見はその分、分岐する。そこに至らなければならない。この時代を多元化、多極化させなければならない。そこに容易に「コピー可能な」意見があっては駄目なのだ。複製ができない言葉、それが詩だ。複製を拒絶する物語、それが小説だ。そうではないのか? こんなことを《お便り》に書いて、だれに咀嚼してもらえるのか、俺はわからない。しかし、(この場に)刻んでおいたほうがよいとの直感があり、その指令に従う。俺はいつもいつも、キツいな、と思う。しかし挫けてはいない。そんな余裕はない。今週の月曜日が2月25日で、その日に、幻冬舎のSさんからの依頼で「デビューの頃」との文章をしたためられた。処女作『13』の刊行から丸21年が経過して、いま、そうした関係をもって文章が綴れるということ。デビューを振り返り、何かを語れる(語り直せる)ということ。それができるのならば、この世界だって「やり直せる」のではないか? 3月と4月に、俺は画廊劇『焚書都市譚』を行なうけれども、それに先だって、2012年4月と2016年8月のふたつの過去が交錯する映像(「、譚 近藤恵介・古川日出男」展・予告映像)も河合宏樹くんの手で起ちあがってきた。画廊劇の、そのベースとなる中篇『焚書都市譚』は、すぐにも雑誌「すばる」に出る。あとは。あとはあとはあとは。読む、ということの可能性を、俺は具体的に伝えられるようにしなければならない。ひとまず、シリアスさは、この1行で絶つ。
20190228