仕事場に〈宇宙〉を持つ、あるいは待つ

仕事場に〈宇宙〉を持つ、あるいは待つ

2025.08.09 – 2025.08.22 東京・埼玉

人と会うことは今月の10日までだった。そこからは完全に新作小説の執筆にダイブしている。ただし作品のために外側から降臨してくれるような、さまざまな映画、さまざまな音楽との出会いがあり、それらはほとんど偶発的に生じているのだが、ある意味では1日に何時間も未知と触れ合いつづけている。しかし基本的には、劇烈な体勢で書きつづけている。

今日は8月22日だが、私は12日後にその新作小説を脱稿しなければならない。12日。このカウントダウン。毎朝、起きるたびに「今日を入れて、あと○○日だ」と数える。ほとんど自分の両頬を平手で叩いている。カレンダーにも残り時間が書かれ、手帳にも書かれている。

先週末には崩れかけた体調があり、実際、発熱も始まったのだが、原稿用紙を前にして万年筆を右手に握って、しかし咳き込み出している自分に向かって、「咳よ、治まれ」と言ってみた。驚異的なことに、翌日には治まった。しかし書いている場面が、本来の軌道を外れはじめると、やはり気管支の不調が再来したりもする。ぎりぎりのところにいるのだな、とわかる。かつ、その〈本来の軌道〉を決めるのは私ではない。私という作者ではない。作品だ。

作品には〈宇宙〉があり、なのにその〈宇宙〉に足を踏み入れもせず、きちんとした探査もせずに、データだけをブラウズして「まあ、こういうのが実像だろうな。科学的なありようだろうな」と机上で考えて準備した場合に、私は徹底的に作品から放りだされる。その軌道から、ポイッと抛られるわけだから、つまり鉄道(電車)から投げ棄てられるようなものだ。

今月17日からの記憶があまりないのだが、だいたい午前5時台には思考しはじめていて、前日に書いた原稿の内容(らしきもの。実際には書かれた〈宇宙〉の味わい)を咀嚼して、どこかで床を出る。そして、執筆は昼を過ぎ夕方を過ぎ、夜になる。書いた原稿をまるまる廃棄するというのも連日やっていて、私は特注の原稿用紙を使っているのだけれども、それが昨日、尽きた。そこには「超空洞譚」という四文字が入っているのだけれども、昨日の途中から、何も記されていない原稿用紙に入っていった。つまり、そこには〈空白〉があるのだと言える。この状況を乗り切れば、それは超〈空白〉ということなのだし、すなわち「超空洞譚」だろう。

ちなみに追加の発注は終わった。これから「超空洞譚」原稿用紙がたぶん1000枚ほど制作されるが、しかし、それは脱稿後に到着する予定である。私は、ということは、あと1000枚は来年以降に何かを手書きで書いたりするのだろう。

時どき「小説を書く」ということと「音楽をやる」という行為を比較する。すると私のやっていることは、バンド活動というよりも、純然たる作曲に似ている。楽譜を用意しているのだ。この楽譜から、音を実際に奏でるのは演奏家たちであり、それは小説に関していうならば〈読者〉なのだと見做せる。また、並んでいる音符から頭の中にメロディを見てしまうのは、やはり最初は演奏家たちなのであり、すなわち〈読者〉なのだと言える。長篇小説における文体物語は、じつは作者が万全に仕込む類いではない。その文体からオリジナルな演奏を産み落とし、未知の魅惑的なストーリーを感受するのは、読者である。

私は、現代の文化は、読者を馬鹿にしすぎていると思う。
100パーセントの敬意を払うために、私はあと12日間、仕事場にて〈宇宙〉を待つ。かつ、持つ。