見据えるしかない。信じて鍛錬し、足もとを確認しながら進み、また、支度がきちんと整っているのかを確かめ、すなわち備え、(そして自分の仕事に関して語るのならば)ひたすら書き、ひたすら推敲し、少々は失敗してもいい、失敗したのならばそこから学び、そして進む。「その道だ」と思ったら、その道、を変えるわけにはいかない。どんなに周囲から「変えろよ」と言われても、です。たとえば、いまの読者はもう本格的な小説を読む力がない、と言われる。だから、歯応えが「あり過ぎない」小説にすればいい、と言われる。あるいは含みを持った発言をされる。それはそうだろうな、と思う反面、もしも、そんな歯応えの「ない」小説ばかりをマーケットに出していったら、今後、小説を読む人たちの層=世界はどうなってしまうのだろう? とやはり僕は考える。こういうのは、スポーツ競技などに喩えるといいんじゃないかと漠然とイメージするのですが、そうだな、適当にフィギュアスケートを例に挙げますが、僕は、選手が4回転半跳んだ、と言われても、まあ「1、2、3……え? そんなに?」とぜんぜん目で確認できないわけです。そんな動体視力はない。でも、フィギュアを見ることを楽しんでいる人たちは、そういう細部に興奮しているわけで、ホントすばらしいと思うし、そうした技を競っているアスリートの人たちはまじ凄い。要するに、競技を「見る」側にそれを見る/読む/ジャッジするリテラシーが発達しているから、人はフィギュアの鑑賞に熱中するのだと思う。「普通の人の目視しうる範囲で、大技だけやってね」とのリクエストになったら、それでも、もちろん、楽しいエンターテインメントは氷上に産み落とされるわけですが、数年ごとに(上位競技者の)レベルが「革命的に上がる」ようなことは起きない。鑑賞する側にリテラシーがあるから「凄いこと」になるという話だと、他には、やはり実感するのはサッカーで、僕は普段サッカーは見てないのですが、日本にプロリーグができて以来、なんかこう、サッカー・ファンのリテラシーはまさに4半世紀かけて磨きに磨かれてきている。楽しみ方の次元がぜんぜん違うじゃん、と、はたから見つつ感じるわけです。で、ここまで自分には「わからない」スポーツ鑑賞の世界に触れたのは、小説にも、当然ながらリテラシーが要るし、それは書く側には言うまでもなく必要なんだけれど、シーン(文芸シーン)に大切なのは読者の側のリテラシーなんだよ、ということです。先日、とある公的な場で、僕の作品を「難しいですよね……」という人に会って、そんなふうに言われたのは久々だったのですが、その発言に「どうして難解な作品を書くんだ?」とか「わかりづらい話を書いて、馬鹿にしているのか?」みたいなニュアンスを感じたためです。僕は、いちどたりと、というか、1作たりと、わざと難しくしようと思って小説を書いたことはない。そこに難解さがあるならば、それは《必要》だから書かれているし、織り込まれている。けれども、それが駄目なんだよ、排せ、と言われてしまったら、ただの《ヤワさ》が残るだけだと思う。そして、そういう《ヤワさ》にあふれた小説だけがあふれたら、読者は、もう「噛み切れる歯」を持たない/持てないことになってしまうのではないか。そういうわけで、全身全霊で、心を込めて、4回転半跳んでみます。リテラシーを上げたいと願っている読者が、そこにいる、と単純に信じて。
20180606