【古川日出男の番外地】#3 アメリカン・ユートピア

「アメリカン・ユートピア」

立川市曙町2丁目・番外地

デイヴィッド・バーンによって産み出された、と言っていいのだろうと思う映画『アメリカン・ユートピア』は、ちょっと愕然とするほどすばらしかった。ひと言でいうと、滅茶滅茶に元気が出た。映画館でこの『アメリカン・ユートピア』を観た日、じつは私は相当に頭にくることがあって、鑑賞中にも数回はそのことを思い出して、やはり意識を〈怒り〉に奪われたのだけれども、ふと画面に目をやって、また集中すると、あっ、自分は微笑んでしまっているっ、と気づいてしまうほどに、人をポジティブにしてしまうエネルギーに満ちていた。なんなのだ、これは?

アルバムの『アメリカン・ユートピア』がまずあった、わけだ。そして、それがツアーという形で演奏されて、あろうことかブロードウェイで〈上演〉される舞台になる。個人的なことばかり書こうと思うのだが、私は、音楽家にとって「曲を作ること」と「ライブで演奏すること」がぜんぜん違うであろうことは、たぶん身体で理解している。なぜならば、私は小説を執筆することを生業としているのだけれども、その同じ小説を朗読することもある人間だからである。私は朗読を前提に小説を書いたりはしない。この二つはまるっきり違う表現である。とはいえ、つながっている。その意味ではこの二つはかなり同じ表現である。私は2019年に、文芸誌「すばる」に『焚書都市譚』という中篇小説を発表して、その直後に、代官山の LOKO GALLERY でこれを「画廊劇『焚書都市譚』」に変えた。もちろんこの「画廊劇『焚書都市譚』」には純粋な朗読のシーンも混じっていて、私は漠然とだが、「作曲」→「ライブ演奏」→「舞台での演奏(とその他)」との流れが、どういうものか、がわかる。そして、デイヴィッド・バーンがいったい何を創ってしまったか、のレベルに圧倒される。

なにしろこれは、エンターテインメントではないのだ(そう捉えるには〈政治性〉が強すぎる)。なのにこれは、エンターテインメントの向こうにギラギラと輝いて踊り倒すエンターテインメントなのだ。ということはつまり、私のやりたいことなのだ。やたらめったらメッセージ三昧で、文学的で、しかも痛快で、人間と人間とのパッションにあふれていて、叫びそうになってしまって(でも映画館では誰も叫んでいなかったのでやめた。コロナ時代だし)、要するにスクリーンに投影されている〈映画〉なのに肉体を持っている。そういう作品だ。そういうのは、紙のうえに印刷された〈書籍〉なのに肉体を持っている、という小説をこころざしている自分の、なんというかこう、〈師匠〉みたいなものじゃないか!

これを創る人がいまこの時代にいるということ。それを支える人たち(ミュージシャンたち、舞台のスタッフたち、監督のスパイク・リーをはじめ撮影のスタッフたち)がいっぱい存在するということ。そして、やっぱりこの映画を何度も観ちゃう人たちが私のまわりにもいっぱいいるということ。しかも『アメリカン・ユートピア』という作品そのものが、このコロナ時代の寓話として読み解けること。私は、こんなものがあるんだ(「創れるんだ!」が正しいか)と知るだけで、俄然やる気になった。あと、なんかステージで私も踊ったりしたいんだよね、とも思った。ちょこっとだけね。